第160話

 桐子は再びタクシーに乗り、松岡が指定した場所へ向かった。

 着いた先は寺院のような造りの日本建築で、色づき始めた楓が鮮やかだった。

 門をくぐり引き戸を開くと、和服姿の女将が心得たように中へ案内してくれた。


「お連れ様、お見えです」


 静かに開かれた障子の向こうには、十一月だというのにシャツの袖をまくった松岡が座っていた。

 黙って入ってきて、違和感なく上座に座る桐子に、松岡は既視感を覚える。この女と文哉は確かに兄妹なのだと。


「いいところね。でも、お昼にこんなところまで来ちゃって、午後の仕事は大丈夫なの?」


 開けっ放しになっている雪見窓から見える庭園に目を細める桐子に、松岡は呆れる。


「……呼び出したお前が言うな。まあ、何があったか知らんが、とりあえず食おう」


 平日の昼間だ。さすがの松岡もアルコールは口にしない。冷えた緑茶が喉に心地よかった。


「兄貴の具合はどうだ。骨なんかそう簡単にくっつきゃしないだろうが」

「……そうね、元気なんじゃない」


 予想に反して素っ気ない返しに松岡は眉を上げる。そして小さく吹き出した。


「……何で笑うのよ」

「なんで、って……。さてはお前、兄貴とケンカでもしたか」


 桐子はぷいと横を向く。当たったことが愉快で、今度は大きく哄笑した。漆の箸で前菜を口に放り込む。


「広瀬を放り出してまで面倒見てるのに、ケンカなんかしてバカじゃねえのか」

「そんな……大したことじゃないわ」

「大したことなんだろ、俺なんかに甘えてくるくらいなんだから」


 あえて桐子が腹を立てそうな言葉を選んで揶揄い続ける。いつもの桐子なら、自分の旗色が悪くなるとすぐに逃げ出す。しかし今日はそうはならないだろう、と踏んでのことだった。

 案の定、不愉快そうに眉をしかめるものの、座を立つ気振けぶりはなかった。


「いい年して兄妹喧嘩できるほど仲がいいのはいいことだろ。どうせお前が悪いんだろうから、とっとと見舞い行って謝ってこい」


 松岡の言葉に、声は発しないものの黙って頷く。余程凹んでいたのだろう、第三者からありきたりの解決方法を提示されただけで、機嫌がなおったようだった。


「ところで……、お前、最近変なこととか、無いか?」

「……変なこと、って?」

「何、って聞かれると……。不審者につけられるとか、無言電話とか」

「なにそれ……無いわよ」

「知らない奴が近づいてきた、とか」


 まさかそんな、と思いながら、ふと、剣のCM撮影現場で突然声をかけてきた男を思い出した。

 だが、その人物は環と名刺交換していた。自ら出自を明らかにしているのだから、不審ではないのだろう、と除外した。


「特にいないわ」


 桐子の回答に、そうか、と頷き、じゃあ、と、質問を変えた。


「川又裕之、この名前に聞き覚えは?」

「どうしたの、さっきから。まるで尋問されてるみたい」

「そんなんじゃねえ。で、知ってるか?」

「いいえ」


 桐子は蓮根の天麩羅に箸を伸ばしながら、先ほどと同様に間髪入れず否定する。松岡は安堵しつつも、自分の想定が一つ外れたことを認識した。


 その後はしばらくは目当ての鱧料理に舌鼓をうつ。男の松岡には若干物足らなさもあったが、桐子はいたく気に入ったようだった。


 最後のメロンまで平らげると、名残を惜しむように松岡は会話を引き延ばした。


「お前んとこの坊主、今いくつだ?」

「伊織? 次の春で高校三年よ」

「もう、大人だな。……お前らはどう考えてるんだ?」

「……どう、って」

「千堂家の次の跡継ぎってことだよ」


 思いがけない質問に、桐子は持っていたフォークを取り落とした。


「あっ……、ごめんなさい」

「代わり、持ってきてもらうか」


 桐子は首をふる。一瞬で食欲が失せた。


「あなたが気にするようなこと? それに、伊織は広瀬の子よ。千堂は関係ないわ」

「じゃあ、お前の息子は、千堂家については何も知らないんだな」


 松岡は先日の伊織と一花の様子を思い出しながら畳みかける。桐子の顔が青ざめていることは気づいているが、手を緩めるつもりはなかった。


「知らなくてもいいのよ……。あの家のことは、私と兄さんが」

「生きてる間は、な」


 桐子は息が止まるかと思った。それは、薄い影のように常に桐子の脳裏から離れることのない恐怖だった。


「お前もお前の兄貴も、必ずより先に死ぬんだ。それを忘れるなよ」


 桐子は頷くことも、いつものように跳ね返すことも出来なかった。

 ゆっくりと数回呼吸を繰り返し、瞼をあげると、そこには見たことないほど繊細にこちらを気遣う松岡の顔があった。


「わかった、な?」


 子どもを教え諭すような、静かで柔らかい声に、桐子は黙って頷いた。

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