第159話

「兄さん、入るわよ」


 広瀬を見送り、子どもたちを学校へ送り出した後、桐子は洗濯済みの衣類を持って今日も文哉の病室を訪れていた。

 中から小さく文哉の声が聞こえたので、扉を開けて入る。

 相変わらず、どこの役者の楽屋裏だと思うくらいに、見舞いの花籠や果物類であふれていた。


「全然減らないわね……。兄さんが入院したって、一体誰から聞いてるのかしら」

「さあな。考えられるのは会社の関係者くらいだけど……。誰一人顔は出さない、配達されてくるだけだよ。だからほっとけ」

「……そうはいかないでしょ」


 桐子はため息をつきながら、差出人名義を一つずつ確認する。これでまた退院したら同じことが繰り返されるのかと思うと、つくづく面倒だと頭を抱えたくなる。


「お前が一人で持って帰るのは無理だな。広瀬くんに頼んで……、と、もう出立したんだったか、彼は」

「ええ、今朝ね」


 文哉の世話があるから、と、夫には事後承諾で残ることを決めたが、それはそれで今頃になって後悔していた。


(いえ、後悔、とは違うわね、後ろめたさかしら……)


 笑顔を残して出掛けて行った広瀬を、今頃になって心配になってきた。それは多分、予期していなかったタイミングで文哉が事故に遭ったせいかもしれない。広瀬は大丈夫だ、という確証などどこにも無いのだ。


「今からでも追いかけたらどうだ?」


 不意に文哉に問いかけられ、桐子は驚いて勢いよく振り向く。


「広瀬くんが心配だって、顔に書いてあるぞ。見ての通り俺は問題ない。洗濯物だなんだ、って言うなら、人を雇えばいい。一花達の世話だってそうだ。だから、こっちのことは」

「やめて」


 桐子は、病院には不似合いな大声で、文哉の声を遮った。数秒後、ハッとしたように自分の口を押えたが、もう遅いことは分かっていた。


「自分で決めたことよ。広瀬は仕事なの。私がついて行けば、逆に私に気を使って仕事に集中出来なくなるような人なのよ。だから……いいのよ」

「広瀬くんだって、その区別くらいつけるだろ。まったく……、お前は余計な心配をし過ぎだ」


 呆れたような兄の口調に、桐子の中で何かが切れた音がした。


「余計なのはどっちよ?! 兄さんこそ、私たちのことに口出ししないで!」


 桐子は自分の感情が激していることに気づいていた。震える唇に必死に力をこめて、声に響かないよう努めた。しかし、文哉と顔を見合わせることは出来なかった。


「洗ったパジャマ、ここに置いておくから……。じゃあね」


 普段なら主治医に経過を聞くまで居座る桐子だが、この日はそれだけ言って病室を後にした。


◇◆◇


 桐子は病院を出てすぐにタクシーを拾い、自宅へ戻る。普段なら当たり前の、自分以外誰もいな昼の空間が、たまらなく心細くなった。

 無意識に桐子は松岡に電話をかけていた。


『どうした、こんな真昼間まっぴるまに』

「あなた、今どこ?」

『どこ、って……。事務所だよ。仕事中だ。月曜日だぞ、カレンダー見てないのか』

「時間、作れる?」

『あ? 夜か? それなら……』

「違う、今よ」

『何言ってんだ? 今?』

「無理なら、いいわ。じゃあね」

『待てよ。……なんかあったのか』

「……」

『旨いはも料理食わせる店見つけたんだ。連れてってやるよ』


 待ち合わせ場所だけ伝えると、松岡のほうから電話を切った。桐子は気分を変えるためにシャワーを浴び、再び家を出た。


◇◆◇


 同時刻。

 各務靖 -川又裕之- は、市民病院の一室を訪れていた。

 もう何十年も、なんの変化もない病室。いや、変化がないのは病室ではなく、正しくはその中で横たわっている人物だった。


 まったく目を覚まさない、山ほどの管で機器と繋がれているだけなのに、髪には白いものが混ざり、目尻には昔は無かった皺が刻まれている。


 ガタつく丸椅子を引いて、ベッドの横に腰を下ろす。


 ここに来る前に、文哉が入院する病院に寄った。当然室内には入らず、他の入院患者への見舞いを装って最上階の個室の前で立ち止まった。


『千堂文哉』


 のネームプレートすらも、札束で磨かれているように光って見えた。


 そして、今、自分がいる部屋は。

 文哉の病室とはまるで正反対の、見捨てられた、時間が止まったような、薄暗い病室。同じ国の医療制度の元で治療されているはずなのに、この違いは何だと、乾いた笑いを漏らす。


 掛け布団の上に出ている、筋肉の削げ落ちた細い手を、そっと握る。

 微かな温かさだけが、その人の生を感じさせてくれる。


 この温かさが消えてしまう前に、やり遂げなくてはいけない。

 裕之は静かに立ち上がり、決意を込めて呟いた。


「待っててくれ、兄ちゃん」

 

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