第158話
土屋が二人を案内したのは、地元の人に人気のパブだった。同じように仕事あがりらしい男たちが話に花を咲かせている様子は日本でのそれと変わりなく、広瀬は急に親近感が湧いてきた。
「いい店だな。お前、結構通ってるだろ」
「なんで分かるんだよ?」
「店員が目配せだけでグラス持ってきたじゃないか。それで十分だよ」
「なんだよ、バレバレか。あ、田咲くんも勝手に頼んじゃったけど、ビールで平気だった? 聞かなくてごめんね」
「あ、いえ、大丈夫です。すみません、割り込んじゃって」
剣の恐縮した面持ちと言葉に、広瀬は、自分達が年上だからだろう、と推し量った。
「僕が無理に誘ったんじゃないか。そうだ、君はいつまでこっちにいるの? もし明日も時間があるなら、こいつにお勧めのお店とか聞くといいよ。無駄に色々知ってそうだからね」
「無駄って何だよ。お前がこっち来たら当然付き合わせるからな」
剣は、その話題に横から割り込んだ。
「香坂さんは、こっちに住んでるんじゃないんですか?」
「うん。正確には、まだ、かな。来年から赴任が決まってるんだ」
「……じゃあ、その時はご家族と?」
剣の、何も知らない当然の質問に、広瀬は一瞬口ごもったものの、いつも通りの笑顔で頷いた。
「……そうなんですね。海外に引っ越さなきゃいけないなんて、大変なお仕事ですね」
剣が二人への敬意を装った返答をすると、土屋がバンバン、と背を叩いてきた。
「仕事なんて、どんなもんでも慣れ、だろ。そういえば、田咲くんは何の仕事をしてるんだ? もしかして学生?」
剣はぎくりとする。しかしウソをついたところでどこかでボロが出るだろう。折角親切でここまで付き合ってくれている二人に、それは失礼だ、とも考えた。
「いえ、俺は……役者なんです」
想定外の返答に、二人は驚く。先に反応したのはやはり土屋だった。
「役者? こりゃすごいな、でもハンサムだしな。そっかぁ、じゃあ目当ては劇場巡りか? シェイクスピアの本拠地だしな」
言われて初めて、剣はそのことに気がついた。そしてドラマは、まさにシェイクスピアの名作が下敷きになっていたことも。
「別件があって、すっかり忘れてました……。そっか、観ておけばよかったですね」
「話題作じゃなければ当日でもチケットは取れるんじゃないか?」
「いえ……、実は明日には帰らないといけなくて。ほんと、残念です」
そうかー、それは残念だなぁ、と人の好い土屋らしい返しを聞きながら、広瀬は心に引っかかるものを感じていた。
剣の整った横顔を見つめて、引っかかりの元を探ろうとしたが、酔いと疲労に邪魔されてそれ以上の何かを感じ取ることは出来なかった。
小一時間経った頃に、広瀬が白旗を上げた。
「ごめん、今日の今日だから、ここまでにしておくよ」
普段ならもう少し飲めるのだが、丁度いい感じに眠気が訪れそうだったので、土屋に散会を申し出た。
「相変わらず慎重な奴だな。酔いつぶれても負ぶってってやるぞ?」
「いや、田咲くんをホテルまで案内する約束もしてるしね……。そろそろ、いいかい?」
「あっ、はい、すみません、じゃあ俺も……」
剣は慌てて財布から外貨紙幣を取り出そうとして、すっかり親しくなった土屋にポカっと頭をはたかれた。
「バーカ、ここはおっさん達に大人しく奢られろ。お前はまた金貯めて演劇観に来い。そんで名優になったら奢ってくれ。出世払いってやつでな」
「名優って……。じゃあ、すみません、ゴチになります」
じゃあ、と頭を下げて、剣は広瀬に連れられて外へ出た。
店の外もまだまだ賑やかだった。むしろ夜はこれから、といった前哨戦の空気の中、再びホテルの住所を見ながら肩を並べて歩き出す。
「ちょっと肌寒いですね。酔いが飛びそう」
「ハハ、田咲くん、あまり飲んでなかったもんね」
「外国ですし、ちょっと緊張してたかもしれないです。普段はもうちょっと飲めるんですけどね」
「そうなんだ。じゃあ」
広瀬は懐から名刺を取り出す。
「また機会があったら飲もう。東京にもいい店はたくさんあるしね。……っと、勝手に関東の人だって決めつけちゃってたけど」
「大丈夫です。都内住みなので……。じゃあありがたく頂戴します」
受け取った名刺には、広瀬も聞いたことがある社名と『シニアマネージャー』という肩書、そして『香坂広瀬』と名前が記されていた。
(やっぱりこの人が、桐子さんの……)
ニコニコしながら通行人たちの盛り上がりを眺める広瀬の様子は、人柄も育ちもよさそうで、桐子に対するのと同様に自分とは別世界の住人に思わせた。脳内で広瀬の隣に桐子を配置する。自分でもびっくりするほど、二人はお似合いで自然だった。
「さあ、着いたよ、ここでいいかな」
「はい。今日は本当に……ありがとうございました」
剣は改まったように、広瀬に深々と頭を下げる。
「また、是非」
そう言うと、広瀬も大きく頷き、手を挙げて立ち去って行った。
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