第157話

 剣が、自分に声をかけてきた男性が、桐子の関係者だと気付くまでに時間はかからなかった。

 ただ、一花の文化祭で桐子と一緒にいた男とは明らかに別人だということは分かったので、多少混乱しながら、それでも男性から目が離せなかった。


(あの時のほうが旦那じゃないのか? だって、否定しなかったよな、あの人……)


 自分を睨み返してくる桐子への意趣返しも含めて、確か自分はあの時の男に


『素敵な奥様ですね』


 と言った。そして男は否定しなかった。

 だから、あの時一緒にいたのが桐子の夫だと思っていたのに。


 文化祭の時の記憶と、目の前の男性の素性への推測で混乱している剣を他所に、広瀬は目的地の大体の場所が分かったらしく、明るい声を上げた。


「少し歩きますが、そんなに離れていないみたいですね。じゃ、行きましょうか。……あ、一本電話かけさせてもらいますね」


 剣が慌てながらも頷くと、ポケットから携帯電話を取り出した。


「ごめん、ちょっと人を案内してから戻るから、少し遅れるよ。……うん、うん。いや、大丈夫。あ、そうだ」


 広瀬は土屋と話しながら思いついたことを、電話を顔から少し離して剣に提案した。


「もしお連れがいないなら、これから一緒に食事どうですか? 僕と、もう一人いるんですけど、もしよろしければ」


 剣はびっくりして、咄嗟に遠慮する。


「いえ、いえ、そんな。ご迷惑でしょうから」

「そんなことありませんよ。これからまたレストランを探したら、また道に迷っちゃうかもしれないよ? 折角だから、イヤじゃなければ」

「で、でも……」


 剣は相手の親切心に、有難みを超えて不安になってきた。今まで生きてきた中で、見ず知らずの人にここまで親切にしてもらった経験がない。自分に親切にする人間は、何かしらその人自身にメリットがあるだけだと思っていた。

 しかしこの人は。


(俺なんかに親切にしても、いいことなんかないだろうし、めんどくさいだけじゃないのかな)


 何か裏があるのか、とも想像しかけたが、屈託のない笑顔を見ていたら、遠慮することのほうが失礼に当たるように思えていた。

 じゃあ、と同意しようとしたところで、別の事実にも気がついた。


(この人が桐子さんの旦那だったら……)


 今電話をかけた相手が桐子である可能性は十分にある。まさかこんな形で会えるとは想定していなかったが、それなら尚更断る理由がなかった。


「連れはいないです。ご迷惑じゃなければ、是非」

「それは良かった」


 返事を聞いた広瀬はホッとしたように笑って、食事の場にもう一人追加になることを伝え、通話を終えた。


「じゃ、このまま行きましょうか。すぐ近くですから。ホテルへの送っていきますよ」

「なんかすみません、何から何まで」

「いえいえ。あ、そうだ、お酒飲めるよね? 若く見えるけど、未成年とかじゃ……」

「二十三です。本場のウィスキー、楽しみです」


 そして二人は、肩を並べて歩き始めた。


◇◆◇


「お? こりゃイイ男連れて来たな。知り合いか?」


 広瀬が剣を連れてオフィスへ戻ると、剣を見た土屋が目を丸くしてまぜっかえしてきた。


「いきなりそんな言い方失礼だろ。……ごめんね、僕の同期の土屋。……そうだ、僕もまだ名前名乗ってなかったね。香坂といいます」


 剣はもう一人のニコニコしている頑強そうな男性と、勝手な期待と違ったことへの落胆を隠しながら握手を交わす。そして名乗られた名前に、動揺と同時に確信をあらたにした。


「……田咲といいます。こちらこそ、名乗るのが遅れて」

「俺は土屋だ。君は、観光で?」

「……ええ、まあ。道に迷っちゃって、でも英語分かんないからその辺の人に聞くことも出来なくて困ってたら、香坂……さんに声かけてもらって」

「慣れない土地じゃ、仕方ないよね」

「なんだ、これだけのイケメンだから、てっきり香坂がナンパしてきたのかと思ったぞ」

「あのな……。田咲くん、だっけ。こいつの言うことは真に受けなくていいからね」


 じゃ、早速行こうか、と前に立って歩き出す土屋を先頭に、三人はすっかり暗くなったロンドンの街へ繰り出した。

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