第156話

 広瀬は土屋と一緒に、早速現地オフィスの準備に取り掛かった。といっても必要最低限なものはほぼ揃っていて、後は東京本社との最終調整だった。そこは東京から派遣されてきた広瀬の仕事だった。


「……なるほどな、そういうことになってるのか」

「まあ、来年実際にスタートしてから、って感じだろうけどな」

「うん。でもやっとちゃんと理解出来たわ。お前やっぱり頭良いな」

「よせよ」


 真面目にデータを読み込んでいたかと思うと、馴染み同士の気安い会話に戻る。この硬軟織り交ぜた柔軟さが土屋の持ち味で、広瀬は自分に無いものだと思っていた。


「このタイミングでお前が直々にこっち来るって聞いて、もしかしてなんかやらかしたか、って心配したんだけどな。余計な心配だったな」

「……僕はそんなに信用ないのか?」


 違うって、と手を振って否定する土屋に、わざと暗い顔をして見せる。だが、年齢的にも国内で椅子の位置が高くなっていくのを待つだけだと思っていた矢先の赴任辞令だったため、広瀬自身も最初は同じことを考えた。


「余程の情勢変動か組織変更がない限り、三年が上限だと思ってるよ。専務からもそう言われたしね」

「そっか。じゃあ、単身赴任でも良かったんじゃないのか?」


 広瀬はその問いに、笑って返すことしか出来なかった。


◇◆◇


 打ち合わせは夕刻まで続いた。ひと段落したところで窓の外を見たら既に陽が落ちていた。


「もう夕方だな、今日はここまでにするか」

「いいのか? 僕は一週間しかいられないけど」

「初日から飛ばしてどうするんだ。時差もあるんだし、今日はここまでにしよう」


 同期の気遣いに感謝し、広瀬も頷く。


「じゃ、一旦荷物置いて来いよ。晩飯はいい店連れてってやる」

「……時差ボケがどうのって言ってたの、誰だよ」

「飲んで寝れば体内時計も整うさ。いいアイデアだろ?」


 広瀬は笑うしかなかった。久方ぶりの邂逅で、帰りの時間を気にする必要もない解放感もあり、広瀬もすっかり乗り気になった。


「じゃあ、また戻ってくるよ。少し待っててくれ」


 広瀬は仕事道具をまとめて、オフィスを出た。




 ホテルに一式を置き、体が疲れるスーツを脱いで普段着に着替えると、再び土屋の待つオフィスへ向かう。


 その途中で、辺りをきょろきょろ見回して立ち尽くしている様子の青年の姿が目に入った。


(日本人っぽいな。迷子かな)


 広瀬は道路を渡って、その人物へ声をかけた。


「日本の方ですか? もしかして、何かお困りですか?」


 そう言うと、青年は驚いたように振り返った。


◇◆◇


 剣は何のあてもなく、足を棒にして、桐子を探して市内を歩き回った。

 だが当然ながら、何も収穫を得られないまま、気がつけば辺りが暗くなり始め、さすがに疲れ果ててしまった。


(やっぱり無謀だったか……。俺、何してんだろうなぁ、こんなとこまで来て)


 仕事の予定もあり、桐子からも『来るな』と言われていたにも関わらず強行しておきながら何の成果もない。体だけでなく気持ちも萎えてしまった。

 すれ違う外国人の群れの中で、自分こそが異物のような居心地の悪さに不安を感じたとき、また別の問題も思い出した。


「あれ……、ここ、どこだ?」


 慌てて辺りを見渡すが、当然ながら見覚えなどなく、ホテルがどの方向なのかの見当などつくはずがなかった。

 途方に暮れた時、背後から声をかけられた。

 それが日本語だと気がついたときは、安堵よりもタイミングが良すぎて驚きが勝ってしまった。


「もしかして、何かお困りですか?」


 親切にそう問いかけてくれたのは、背の高い、自分より年上の日本人男性だった。


「え、えっと、道に迷っちゃったみたいで……」

「それは大変ですね。僕も詳しくないけれど、よかったら一緒に探しましょうか?」

「え? いいんですか?」

「もちろんですよ。どこに行く予定だったんですか?」


 自分が望んでいることを先に提案し、早速行動に移ろうとしている様子に、剣は感謝しつつも恐縮してしまう。が、地獄に仏とはまさにこのことだと、助けの手を断ることは出来なかった。


「どこって言うか、ホテルに戻りたいんですが、どうやってここへ来たのか覚えてなくて……」

「ああ、観光してるとよくそうなっちゃいますよね。ホテルの住所は分かります?」


 剣は頷き、ホテルの情報が印刷されている紙を取り出し、男性に渡した。

 男性が左手で受け取る時、左手の薬指の指輪に目が留まった。思わず凝視しつつ、紙を開いて読んでいる男性を、上から下まで観察した。


(この人、どこかで……)


 記憶を辿ると、剣の脳内で、男性の背景がヨーロッパの街角から夏のキャンプ場に切り替わった。

 

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