第155話

 空港に到着した広瀬は、もろもろの手続きを終えると、航空会社の専用ラウンジでしばらく休憩を取った。

 平日だが、他の乗客たちには家族連れや観光目的らしき人も多い。そう言えば自分は、夏の二家族合同キャンプを除けば、ほとんど旅行などしていなかったことに気がついた。

 自分と桐子の仕事がひと段落し、伊織の進学先も決まったら、久しぶりに家族だけで旅行へ行くのも楽しいかもしれない、と夢想する。


(その時は……、三人だけで行きたいな)


 しかし桐子が義兄一家も誘うなら、それに自分は反対できないことも分っている。三人だけでと言えば、桐子が反対するとは思えないのに、どうしてその一言が言えないのだろうと、ずっと考え、自分を責め、時に桐子を責めていた。心の中で。

 だが、もしも、を考え、常に手前で立ち止まってしまう。

 桐子を守ろうと誓った日から、広瀬の前には常に文哉が立ちはだかっていたからだった。


◇◆◇


 数時間の長いフライトがようやく終わり、現地に降り立つ。日本と違う風と匂いに、異国へ来た心細さと開放感に包まれた。

 そのままタクシーでホテルへ向かいチェックインする。荷物だけ預けて、自身は予定通り、現地スタッフと合流した。


 真新しいビルのエレベーターに乗って、当該フロアで下りる。扉が開いたところで同期の土屋が出迎えてくれた。


「やっと来たな! 久しぶり、香坂」

「元気そうだな、土屋。長時間の飛行機は疲れたよ。でも色々手配してくれてありがとうな」


 互いに労をねぎらう。自分より少し背は低いが、骨太で肉厚な土屋の肩を遠慮なく叩くと、入社した時の緊張感と高揚感が戻ってくるようだった。


「自慢の奥さんはどうした? ホテルか?」

「あ、いや……」


 今回は一人で来ることに変更になったことが、土屋には伝わっていなかったようで、その質問に口ごもった。


「実は、妻の兄が交通事故に遭ってね。義姉も亡くなってるし、残って看病することになったんだ」

「おっと、それは災難だったな。事故のほうは大丈夫なのか?」

「ああ、義兄は元気そうだったよ」

「そっか。じゃあ夜は遠慮なくお前を連れまわせるな。こう言っちゃ悪いが、俺的にはラッキーだよ」

「おい」


 わはは、と豪快に笑いとばす土屋と、早速仕事の打ち合わせを開始する。急遽一人で来ることになりずっと空虚感が拭えなかったが、久しぶりに旧交を温められると思うと、これからの一週間が急に楽しみになってきたのだった。


◇◆◇


 広瀬が気持ちを立て直せたのとほぼ同時刻、同じ街にもう一人、日本人の男が降り立った。


(やべ、ぜんっぜん分かんねぇ……)


 片言の英単語と、日本人らしきアジア系の通行人に助けてもらいながら、やっと予約したホテルにたどり着いた。

 水曜日にはCMの追加撮影がある。実質剣がこの地にいられるのは二十四時間と少しだった。

 それが分かっていても、桐子の後を追わずにはいられなかった。


 人の良さそうなフロントの初老の男性に部屋まで案内してもらうと、荷物を置くだけで街へ飛び出す。

 来る途中、日本でも馴染みのあるファストフード店やチェーン展開のカフェの看板があった。通貨は違えど、そうした店で食事は事足りると思うと少しだけホッとする。

 どういうわけかこの一週間ほど桐子から連絡が無い。剣から連絡をしても返事が無い。何かあったのか、と悪い予想もしたが、植田にそれとなく確認してもそんな情報は出てこなかった。


(それなら、予定通りここにいるはずだ)


 桐子が自分から少しずつ離れていこうとしていることを実感している剣は、桐子に知ってほしかった。自分は何があろうと離れるつもりはないことを。


 どこにいるかなど分からない。桐子の夫の勤務先など無論分からない。それでも、二十四時間歩き回ることになったとしても、桐子を見つけるのだ、という決意だけが、異国の地を彷徨う剣の、たった一つの拠り所だった。


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