第154話

 広瀬の両親が多少食い下がったものの、文哉が『二人が決めたならそれでいい』と言ったことで、それが総意になった。

 その後は、まずは桐子の体調を見つつ、挙式代わりの食事会や入籍の日取りを決めていこう、というところまで話し合い、お開きとなった。


 広瀬たちが帰るとき、文哉は改めて広瀬と握手を交わした。


「これからは義兄弟だな。って、俺のほうが年下だけど……、末永くよろしく」


 急に文哉の空気がフランクになったことを感じて、広瀬は驚きながらもほっと肩から力を抜く。


「こちらこそ。至らないこともあると思いますが、よろしくお願いします」

「それって私のセリフじゃない?」

「そうだぞ、お前こそ、お三方にしっかりお願いしろ」


 桐子が自ら礼をする前に、文哉が乱暴に桐子の頭を押さえて頭を下げさせる。きゃあ、と悲鳴を上げながらも、姿勢を正して微笑む。


「お義父さま、お義母さま、そして広瀬くん。これからどうぞよろしくお願いします」


 桐子が両手を揃え深く頭を下げると、豪奢な振袖がしゃらりと流れる。背後の日本家屋と文哉が、桐子の後ろ盾としてそびえたっているように、広瀬には見えた。


◇◆◇


「出来ちゃった結婚ってやつか? まあめでたいことだからな、退職を止めることは出来ねぇな」

「申し訳ありません」


 翌日出社した桐子は、直属の上司である松岡に来月末での退職の意思を告げた。


「まだ入社したばかりで、心苦しいのですが」

「じゃ、おろすか」


 気にするな、的なお決まり文句を想定していたら、とんでもない提案を返してきた松岡に桐子は仰天する。その様を見て松岡は爆笑した。


「冗談だよ。お嬢様は中々冗談をおぼえねえな」

「……質が悪いですよ、松岡部長」

「悪かった。体調はいいのか? 来月末までは働けるのか?」


 桐子は頷いて、体調は安定していること、少ないながらも抱えている業務があるため、引継ぎはしっかりやることを伝え、その場から退出した。


 席へ戻った桐子に、周囲の目は冷たかった。

 元より、歓迎されたことはほとんどなかった。桐子は法科出身者として他の学生と一緒にこの法律事務所の求人へ応募し、採用された。しかし桐子の名前を聞くと、誰もが縁故入社だと、聞きもしないで断定して桐子から距離を取った。


『デキ婚だって』

『まじで?! てか男いたんだ、あの人』

『ウソなんじゃないのー? 辞める口実とか?』

『なんでもいいじゃん、いなくなってくれるならさ』


 桐子本人に聞き取れるほどの声量ではなくても、遠くで話している気配がすれば、それが何を意味しているのかは分かる。

 そして桐子はその気配には昔から慣れっこだった。

 大学では親友のお蔭で感じることが減っていたが、やはり自分はどこへ行っても歓迎されないらしい、と実感する。

 結婚退職は、これが潮時だ、という、天からの合図だったのかもしれないと考えて、自分を立て直した。




 昼休みに入る直前、桐子の携帯電話が鳴動する。休憩時間になってから留守メッセージを確認したところ、制限時間いっぱいに、環の大声が鳴り響き続けた。


『結婚?! 妊娠?! ぜんっぜん聞いてないんだけど、どういうこと?! とりあえずおめでとう! たくさんお祝いするからこれ聞いたらすぐ折り返してね! ていうか相手は勿論香坂先輩だよね? 違うとかありえないし! いの一番に環さまに教えないってどいういうことよー、この薄情者! おめでとう! じゃね!』


 メッセージの再生が終わってからやっと、


(そうだ、環に言ってなかった……)


 と気がつき、桐子は一人で吹き出した。

 言われた通り折り返しの電話をかけて謝った。環はそれを聞きつつも、留守メッセージと全く同じことをもう一度繰り返した。


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