第151話

 桐子が文哉に広瀬を紹介した時、既に桐子には新しい命が宿っていた。


「やっぱり最初にちゃんと謝ったほうがいいよね……」


 前もってそれは必要ない、と、桐子が何度も説得したにも関わらず、待ち合わせ場所に現れた広瀬は再度文哉への謝意を口にした。


「私がいいって言ったから、なんだから、広瀬くんが謝ることじゃないわ。もし謝るなら、それは私の役目よ」

「でも……」

「それに、そんなことで怒る人じゃないわ、兄さんは。会ってみれば分かるから。ね、ほら、行こう」


 桐子は広瀬と手をつなぎ、自宅へ向かって歩き出した。広瀬が持ってきた挨拶の品の中身を聞いて、自分の好物だと知り喜ぶ桐子を見て、広瀬も少しずつ緊張がほどけていった。

 しかしそれも長くは続かなかった。桐子に連れられて到着した千堂家の威容に、門前で固まってしまった。


「ここ、なの……?」

「うん、ちょっと玄関まで歩くけど。ごめんね、疲れちゃった?」


 途方に暮れた広瀬の嘆声を疲労と勘違いした桐子に、広瀬は力なく首を振る。


(まさかこれほどとは……)


 大学の後輩たちが、常に話題にしながらも決して桐子に近寄ろうとしなかった理由にようやく納得した。広瀬たちの大学では財産家や名家の子女は珍しくなかったが、それでも千堂家は別格だったのだ。

 桐子の話では両親は既に亡く、今の桐子の保護者は四つ年上の兄だという。親がいない分、兄にとってこの妹桐子は掌中の珠なのでは、と想像すると、やはり拳の一つや二つは覚悟すべきだろうと腹に力を入れた。


 玄関まで歩くこと数分。着いた先の大きな扉を開けると、普通の家の個室ほどはあろうかという玄関に、桐子の兄、文哉が待っていた。


「ようこそ。兄の文哉です」


 自分より年下で、幾分小柄に見えるのに何故か逆らえない空気を漂わせ、柔らかく微笑む文哉を見た瞬間に、広瀬は唐突に『負けた』と悟った。


◇◆◇


 結婚の承諾を得るよりも先に、桐子が茶の用意をしている隙を狙い、広瀬は例の件を詫びるためにソファから滑り降りて床に土下座した。


「ちょ、ちょっと、広瀬くん、どうしたの? 何かあった?」

「申し訳ございません!」


 床に額をつけながら、大声でまず謝罪の言葉を口にした。さっぱり意味が分からない文哉は慌て、その声を聞きつけた桐子はキッチンから駆け戻ってきた。


「広瀬くん、何のことか分からないけど、まずは頭を上げて」


 文哉が広瀬の腕を両側から支えて立ち上がらせようとするが、頑として動こうとしない。


「広瀬くん、そんなことしなくていいから」


 兄と一緒になって取りなそうとする桐子にも、頭を振ってそれを拒否した。


「妹さんを、妊娠させてしまいました! 誠に、申し訳ございません!」


 広瀬は、何はともあれこれだけは絶対に言わなければならないと思っていた。一度は桐子に言い含められ、その是非を彼女に委ねようと思ったが、この兄を前に、桐子に庇われるような真似は出来ないと腹を括った。


 唐突な広瀬の告白に、驚いたのは勿論文哉だった。確認するように桐子を見ると、ばつが悪そうな、それでいてどことなく嬉しそうな困り顔で、小さく首肯した。

 文哉は驚きで息を呑んだ。が、桐子と広瀬の仲睦まじそうな様子に、動揺も一緒に飲み込んだ。


「そうでしたか……。いや、それは驚いた」


 桐子に引っ張り上げられるように立ち上がった広瀬は、自分より背が高かった。事前に妹から聞いていた情報では、大学のOBで、親友の環の紹介で知り合い、証券会社に勤務しているとのことだった。

 真面目で真摯な人柄と、桐子を第一に考えていることは今の一連の言動で伝わってきた。


 二人は結婚を決意している。ならば、妊娠は慶事ではあるまいか。


「おめでとう、桐子。それと、広瀬くん」


 殴られるか、そうでなくても叱責の一つはあって当然だろうと思っていた広瀬は、微笑んで祝われ、右手を差し出されて面食らう。


「至らない妹ですが、末永くよろしくお願いします」

「あ、えっと、……はい」


 思わず手を握り返してから、隣の桐子がプッと吹き出した。


「兄さん、まだ私達、何も言ってないわよ?」

「あれ? そうだったかな。でもまあ、いいじゃないか。お前、生むつもりなんだろ?」

「当たり前でしょ」


 そう言って、桐子はまだ平らな自分の腹をそっと手で押さえる。


「折角就職したのに、すぐ産休とか、怒られちゃうかな」

「それより前に結婚式か」

「その相談もしたかったの。あのね……」

「あ、あの!」


 自分を置き去りにしてトントン拍子に話を勧める兄妹に、広瀬は慌てて割って入る。


「い、いいんでしょうか、その、僕で……」

「当たり前じゃないか」「何を言っているの?」


 ふたりは、言葉は違うが、同じ意味の返事を揃って口にする。

 この時ようやく、広瀬は自覚的に呼吸をすることが出来た。

 

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