第150話

 広瀬は駆け込みのように週末に文哉の見舞いに顔を出し、月曜日には慌ただしく出立して行った。


「気を付けてね。何かあれば夜中でもいいから電話してね。でもあっちの夜中まで仕事しちゃダメよ、時差もあるんだからちゃんと寝てね。お酒飲みすぎちゃだめよ。それから……」

「分かった分かった、そんなに心配しなくても大丈夫だよ、伊織じゃないんだから」

「親父……」

「いってらっしゃーい、頑張ってねー」


 まだ何か言い足りない顔の桐子の肩を叩いて、広瀬は迎えの車に乗って出て行った。

 伊織たちも登校時間が迫っていたので、朝食を済ませるために中へ戻っていくが、桐子は玄関の外でタクシーを見送り続けていた。


「おばちゃんって、基本的に過保護なんだね」

「……そんなに心配なら、予定通りついて行けばよかったのにな」

「それはそれで、こっちが心配なんじゃない? パパのせいが大きいと思うけどさ。でも本当に毎日お見舞い行くとは思わなかった。私何もすることないもん」

「お前は見舞いの品をもらって帰ってくるだけだもんな」

「うっ……。でも、ほんとそう。洗濯物だけじゃなくて病室の掃除や片付けやお見舞い来てくれる人へのお礼とか、全部おばちゃんがやってくれるの。で、伊織くん家にいる間はおばちゃんがご飯作ってくれるでしょ。普段よりずっと楽で、ていうかぶっちゃけヒマ」


 トーストをかじりながら両足をばたつかせる様子が、一花の余裕を体で表しているようで伊織は吹き出す。


「いいんじゃねえか、普段忙しすぎるんだよ、お前は」

「伊織くんは本当に何もしなくなったね、有言実行」


 うっせーよ、と、テーブルの下で一花の向う脛を蹴る。やったなー、と蹴り返そうとするが、伊織より小柄な一花では足が届かず悔しがる。

 そこへようやく桐子が戻ってきた。


「仲が良いのはいいけど、遅刻しないようにね。特に一花ちゃん」


 言いながら時計を指さす。バスの時間まであと数分だった。一花は盛大に悲鳴を上げて、食事もそこそこに駆け出して行った。


「まじで騒々しいな、あいつ」

「でも、楽しいわね」


 一花の食事を片付けながら、桐子が笑う。伊織は母の明るい笑い声が久しぶりな気がして、少し驚いた。


「一花ちゃんがいると家の中が賑やかだわ。兄さんが再婚しない理由は一花ちゃんがいるからかもね」

「そういえば、伯母さん亡くなってから何年も経つんだよね」


 伊織は文哉の風貌を思い浮かべながら、母の言葉と重ね合わせる。確かまだ五十にはなっていないはずだった。見た目はもっと若く見えるし、財産家だ。一花というコブがついていても、再婚相手には不自由しないのでは、と思った。


「彼女とか、いんのかな。一花がいるから隠してたりして」


 何気ない呟きに、桐子は横っ面を叩かれたような衝撃を受ける。たまたま伊織には背を向けていて助かった。そうでなければ、さとい伊織は母の異変に感づいていただろう。


「……さあ、どうなのかしらね。お義姉さんのことが忘れられないのかもしれないし」

「ふうん、そういうもんなんだね」


 あ、俺も行かなきゃ、と慌てて席を立った伊織を送り出すと、桐子はリビングのソファに身を投げるように座り込んだ。


 文哉が結婚すると言った時の衝撃を再び思い出していた。

 自分が広瀬を文哉に合わせた時も、それと似たようなストレスを感じていた。

 結婚を認めて欲しい気持ちと同じくらい、文哉の反応が怖かった。反対されるはずが無いと確信しながら、少しでも自分の期待に背く反応をしてくれないか、と願っている自分に気づいて、文哉からの祝福の言葉にまともに返事が出来なかったことを覚えている。


(自分から話を振っておいて……嫌なこと思い出しちゃったわ)


 文哉は広瀬を妹の夫として大事にしてくれている。自分も、義姉の愛子のことは下心なく好きだった。明るく裏表のない人柄で、一花の天真爛漫さは確実に母譲りなんだろうと思える。

 愛子が突然世を去った時は、心から悲しかったしショックだった。


 だからこそ、愛子への好意と文哉の妻という存在への羨望の狭間で、桐子はあの頃崩壊する寸前だった。


 

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