第149話

「桐子。お前、今のはさすがに失礼だろう」


 珍しく桐子に固い声を出す。しかし桐子もそれで引っ込むつもりはなかった。


「でも兄さん、本当に具合が悪そうだったわ。さっきまでそんなことなかったのに……、あの人と話をしてからでしょ、違う?」


 文哉は、そうだ、とも、違う、とも言わず、いつものように小さなため息をついた。


「俺が松岡さんに頼んでいたことの報告をしてくれただけだ。ちょっと驚いたけどな、でもそれは彼のせいじゃない」


 いつの間にかベッドの横に膝をついていた桐子は、文哉の怪我をしている方の手を、力を込めずにそっと握った。


「……何を、頼んでるの?」


 どうしても気になって、気がつけば桐子はそのまま問いかけていた。


「例の、お父さん達との契約で未払いだった出資金の件はもう終わってるんでしょ? 他のこと? それともまだ終わって無いの?」

「それは……」

「兄さんだけの問題? もしかして……私も関係してる?」


 文哉は背筋がひやりとした。桐子がそう想像するのは当然だった。文哉の仕事は千堂家の管理で、仕事関連だとすれば、それは桐子に無関係とはいえない。

 各務の素性を知りたくなったのは、根拠のない不安に対する自己防衛のためだった。が、先ほどの松岡の報告で、桐子と各務が無関係ではないことがハッキリした。

 しかしだからこそ、ここで桐子の問いに『YES』とは答えられなかった。


「違うよ」

「……本当に?」

「本当だ」


 文哉は自分を見上げてくる桐子を安心させようと、動く方の手を伸ばしてその頭をそっと撫でる。そうしていると、まだ二人とも子どもで、決して愛してくれない両親から庇い合うように過ごしていた頃に戻ったようだった。


 しばらくして、桐子はやっと文哉の手を離した。そして膝を払って立ち上がる。


「もう遅いかもしれないけど、さっきの人に謝ってくるわ」

「そうか。……もう居なかったら、連絡先を」

「そこまでしなくていいわよ」


 桐子はつい普段の調子で松岡を軽んじた。しまった、と思ったと同時に、わざと明るい顔で振り返る。


「さっきの話だと、またいらっしゃるんでしょ? もし間に合わなかったらその時にお詫びするわ」


 じゃあ、行ってくる、と告げ、上着だけ取って病室から出て行った。


◇◆◇


 ゆっくりと動く病院のエレベーターで、たっぷり五分はかかっただろう後に、桐子はロビーに出る。どうせもういないだろうと予想しながら、外来患者でごった返す待合ロビーを見回すと、まるで約束していたかのような表情で、手を挙げて近寄ってくる大柄な男がいた。

 桐子は隠すこともなく、面倒くさそうなため息をつく。


「お前、もう少し申し訳なさそうな顔しろよ」

「なんで?」

「……謝りに来たんじゃないのか」


 松岡は呆れる。何かしら文哉に言い含められたから降りてきたのかと思ったら、それは期待外れだったようだった。


「なんの話をしていたのか、あなたから教えてもらおうと思って。そもそもどうして初対面のフリなんかしたわけ?」

「お前だって乗ったじゃないか」

「びっくりしたわよ。でも、何か理由があってそうしてるなら、私があそこで違うって言わないほうが良かったでしょ?」

「察しが良くて助かるよ。やっぱりお前が俺に無神経なのは、天然なんじゃなくてわざとなんだな」

「……なんの話よ」


 むくれる桐子に笑って、松岡は外のベンチを指さした。桐子は頷いて後ろをついていく。


「お前と面識があることを隠しているのはたまたまだ。言うきっかけを逃したってだけだな」

「広瀬とあなたは顔見知りなんだから、いずれバレるわよ」

「そっか、その時はお前も怒られるな」

「安心して。全部あなたのせいにするから」


 そんなことより、と断って、桐子は本題を切り出す。


「兄さんから何を頼まれてるの? さっき、何の話をしたの? あんなに見てわかるくらい動揺する兄さんなんて初めてだわ」


 遠慮も配慮も何もない、桐子のストレートな質問の裏に、彼女の不安を感じ取る。松岡は寧ろそれを気遣った。


「俺が話せるかよ。弁護士には守秘義務ってのがあってな」

「わかってるわよ。で、何を頼まれてるの?」

「……わかってねえじゃねえか」


 まるで幼子の駄々のようにこちらの言い分を聞き入れない桐子に、松岡は何度目かのため息をつく。今日はいつにもまして大人げが無い。文哉がそばにいることが、桐子を幼児返りさせているのだろうか、とも思った。


「本当に言えねえよ。兄貴に聞けよ」

「兄さんが教えてくれないから、わざわざ追いかけてきたんでしょ」

「じゃあ俺から言えるわけねえだろ。尚更だ。……俺だって聞きたいことがある。海外赴任ってなんだ」

「え? 話したでしょ? 広瀬が来年から……」

「聞いてねえ」

「ウソよ」

「本当だ」

「忘れてるんじゃないの?」

「俺がお前に関する話を忘れるかよ」

「なにそれ、気持ち悪い……。じゃあ言い忘れてたのね、私が。まあそういうことだから」


 それだけ言い置くと、もう用は済んだ、とでもいうように立ち上がる。


「待てよ」

「またね」


 松岡が咄嗟に伸ばした手をすり抜けて、病院のガラス扉の向こうに消えていく細い後ろ姿を、ただじっと見つめ続けるしかなかった。

 

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