第148話

 受け取った籠の中からいくつか果物を取り出し、桐子は茶の用意をする、と断って病室を出た。

 扉を閉め、誰もいない場所で大きくゆっくり深呼吸した。だが大きく息を吸い込み過ぎたせいなのか、逆に頭痛を覚えた。


(どうしてここに来るのよ。兄さんには関わるなって言ったのに……。お金の件はもう終わったんじゃなかったの?)


 腹立たしさと不安と、自分が知らない事態への恐怖で、今すぐ問い質したい衝動が湧き上がってくるが、そうするわけにもいかず、桐子はナースステーションへ向かい、給湯室の場所を教えてもらった。


◇◆◇


 松岡は静かに部屋を出ていく桐子を視界の端で追いながら、眉を微かに下げながら文哉に向き直った。


「そうでしたね、ご当主は奥様が……」

「ああ、はい。……こういうときに伴侶がいないのは不便なものですね。家族を便利扱いするというのもどうかと思いますが」

「妹さんがいて、幸いでしたね」

「まあそうですね。折れた手足に慣れるまでの不自由だと思ってますから、ヘルパーさんを探してもいいのですが。……義弟が来年から海外赴任するので、本当ならあいつも忙しいはずなんですがね」


 文哉の話に、松岡は驚く。誤魔化すためにゆっくりと脚を組みなおした。


「それはまた……、大変な時だったのですね。ご一緒に行くにしても、そうでないとしても」

「後からあいつも行くらしいですが、まあいつになるのやら」


 言って笑う文哉は、困っている様子ではあるが、松岡の立場から見ると『持てる者の余裕』の笑みにしか見えなかった。


(海外赴任? 聞いてねえぞ、そんなの)


 涼しい顔で、自分が差し出した挨拶を、同じ態度で受け流した桐子を思い出し、どういうことだと問い詰めたかった。しかしその衝動は、数秒後には『そんな立場か』と、自分を諫める声に抑え込まれた。

 自分を立て直すためにも、松岡は話題を変えた。


「そうだ、先日電話で少しお伝えした件ですが……。正式な書類はお約束の日にお持ちします。実は」


 そして、各務の経歴の調査結果を伝える。完全に調べ終わっていないが、実は『各務靖』は養子に出た家の姓とその後の改名によるもので、生を受けた時の名前は『川又裕之』であることを話したところで、あからさまに文哉の表情が固まった。


「……千堂さん? どうなさいました?」

「いや、……すみません」


 大丈夫だ、というように、動く右手を軽く振るが、そうは見えなかった。さすがの松岡も焦る。ここは病院で、相手は交通事故の末の骨折とはいえ、健康体でないことに変わりはない。

 慌ててナースコールのボタンに手が伸びたところで、茶と果物の用意が出来た桐子が部屋へ入ってきた。


「お待たせし……、兄さん? どうしたの?」


 桐子は文哉に慌てて駆け寄るが、松岡にしたのと同じように押しとどめる。


「気持ち悪い? 先生呼ぶ?」

「大丈夫だ……、ああ、うん、ごめん、本当に大丈夫だから」


 そう言う文哉の顔色は、確かに先ほどよりは大分まともになってきた。松岡を見遣り、恥ずかし気に笑う余裕も出てきたらしい。


「すみません、お話の途中で。みっともないところをお見せしました」

「いえ、そんな……。すみません、やはりお約束の時にご報告すべきでしたね」


 松岡は話し始めたきっかけが自分の都合だったため、本当に申し訳なくなり頭を下げる。


「松岡さんのせいじゃありませんよ。私も早く聞きたかったですし」

「もうお帰り下さい」


 頭を下げ合う男二人の会話に、桐子の声が矢のように鋭く投げ込まれた。


「桐子」


 妹の厳しすぎる語感に、文哉は慌ててに入るが、桐子の怒気をあらわにした目は松岡だけを捉えていた。


「兄は事故に遭ったばかりです。ご用件は落ち着いてからまたお伺いしますので」

「桐子、だからもう大丈夫だから」

「分かりました」


 桐子の不機嫌には慣れている松岡にも、今の彼女の腹立ちが並みのものではないことが伝わっていた。そして自分の話の何かが、文哉に大きく負荷をかけたことは事実だろうから、ここで居座るつもりはなかった。


「また改めてお伺いいたします。お大事になさってください」


 それだけ言って、再び深く頭を下げ、退室していった。

 室内に残った兄妹に、若干の気まずい空気が流れた。

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