第147話

「兄さん、入るわよ」


 桐子は、中に声をかけて扉を開ける。文哉はベッドを半分起こし、布団の上に新聞を広げて読んでいた。

 その姿に、意外そうな声をあげる。


「兄さん、メガネなんかかけてたっけ?」

「ああ、これか? 老眼鏡だよ。さすがに新聞はこれがないと読みづらくてな」


 笑って返事をしながら、鼈甲の縁の眼鏡を外す。老眼鏡、という響きに、桐子は驚き、驚いている自分に動揺した。それを気取られたくなくて慌てて話を続ける。


「広瀬もたまに使ってるわ。でも兄さんがメガネかけてるの初めて見たからびっくりしちゃった」

「お前はまだ使ってないのか?」

「私? うん、まだ要らないみたい」


 そうか、というと、文哉は新聞も畳んで横へ置いた。桐子はそれらを邪魔にならない場所へ片付ける。


「すごい部屋に移動したのね」


 桐子は持ってきた荷物を出しながら室内を眺めまわす。病室、というよりどこかのホテルの一室のようだった。桐子の言葉に文哉はため息をつく。


「お前たちが帰った後に事務局長が来てな。こっちへ移れ、って。まあ俺があの部屋から出れば他の人が使えるし、断るのも面倒だと思ってな」


 文哉の返事に桐子は小さく笑う。文哉を知る人は、彼を『優しい』『おだやか』と評するが、それはただひたすら人と揉めるのが面倒で、それを避けるために相手の言い分を飲む習慣が身についているからだ、というのを、桐子はよく知っていた。


「兄さんらしいね。一花ちゃんも、こっちに移ったこと知ってるんでしょ?」

「ああ。学校が終わったら来るらしい。この部屋見たら大騒ぎしそうだな」


 そして文哉と笑い合う。窓を背にしているせいか、文哉の顔が逆光になって、横顔に濃い影が落ちている。その顔が急に文哉の年齢を感じさせ、先ほどの老眼鏡の話と相まって桐子は得体のしれない不安を掻き立てられた。

 それを打ち消すように、話題を変える。


「あのね、来週ほんとは広瀬と現地の下見に行く予定だったんだけど、取りやめたから。私毎日お見舞いに来るね」


 聞いた文哉はぎょっとした。妹夫婦に迷惑をかけることになるとは露ほども想像していなかったからだ。


「馬鹿、俺のことはいいから広瀬くんと行ってこい」

「なんでよ? 兄さん、片腕しか動かないじゃない。一花ちゃんだって学校があるのよ」

「ヘルパーさん雇えばいいだろ」

「それに私まで行っちゃったら、うちに一花ちゃんと伊織を二人だけにすることになるのよ。まさか間違いは起きないだろうけど、その間ずっと一花ちゃんに家事までやらせるの?」

「伊織くんだって少しは手伝うだろ」

「あの子には無理よ。とにかく、私は残ることにしたから」


 頑として譲らない桐子に文哉はため息をつく。退院したら、いやそれ以前に広瀬には何重にも詫びを言わなければならない。


 そこへ、ドアの外から声から声が掛けられた。


「千堂さん、松岡です。お見舞いに伺いました」


 名乗った名前と声に、桐子は髪の毛の先まで凍り付く。しかし文哉は小さく息を吐くと、明るく返事をした。


「どうぞ」

「失礼します」


 静かに開けられた扉の向こうには、見舞いの品を抱えた松岡が立っていた。ベッドの上の文哉に挨拶をしかけたところで、傍らで固まっている桐子に気づき、松岡も瞬間動きを止めた。だがそれは、本当に刹那だけだった。


「お約束の日ではないですが、近くまで来たので。お加減如何ですか」

「ありがとうございます。怪我してるところは動かせませんが、それ以外は問題ないので、暇で仕方ないですよ」


 そして桐子を目で示して紹介する。


「妹です。家から色々持ってきてもらったりしています」


 桐子は吹き出そうな冷や汗を必死で堪え、松岡に向き直った。ここで昔の職場の知り合いだと言おうか迷ったが、松岡が先に見舞いの品を差し出した。


「弁護士の松岡と申します。お兄様にはお世話になっております」


 初見を装う様子に、驚きで桐子の口元が微かに引き締まる。しかし桐子もそれに乗ることにした。


「妹の香坂桐子です。お見舞い、ありがとうございます」


 果物の盛り合わせのバスケットを受け取ると、籠の下で一瞬指を掴まれた。が、気がつかないふりをして一歩下がる。松岡の手は追ってこなかった。

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