第146話
翌日登校した一花を待ち構えていたのは、当然加奈だった。
「おはー」
「おは、じゃない! ちょっとちょっと、これどういうこと?!」
教室へ入る前の廊下で加奈に掴みかかられ、一花はよろめく。鼻にくっつくくらいの距離でスマホの画面をぐいぐい押し付けられた。
「待って待って、荷物だけ置かせて」
加奈に引っ張られながら自分の席にカバンを置くと、そのまま他の生徒がいない廊下の隅へ連れていかれた。
「で、で、で? 告ったって、伊織くんに? なんでそんなことになったのよ? 聞いてないわよ?」
昨日の自分よりももしかしたら興奮してるんじゃないか、と思えるくらいの加奈の様子に若干引きながら、一花は昨日の一連のくだりを説明した。
「うわー、それはやばいでしょ」
「え、そ、そうなの? やっぱり言っちゃダメだったかな」
「そうじゃなくて。そんなことされたら私でも告るわ」
「だ、ダメ! 加奈がライバルとかそんなのやだー」
「そう言う意味じゃないわよ。てか私、伊織くん全然タイプじゃないし。そうじゃなくて、そんなシチュだったら、ってこと。いやー、頑張ったねぇ、よしよし。今朝とか超気まずかったんじゃない?」
「そう思ったんだけど、起きたらもう伊織くんいなかった」
朝起きて、昨夜の事件を思い出し中々部屋から出られなかったが、心配した桐子に呼ばれて腹を括るしかなくなり、意を決して朝食の席に向かったところ、既に伊織は登校した後だった。
桐子から、伊織は部の朝練だ、と聞いたが、それが本当か偶然か、は一花には分からなかった。
「そうだ、告った話で忘れてたけど、パパさん大丈夫なの?」
「うん。ひと月くらい入院するみたいだけど、昨日会ったら元気そうだった」
そうだ、それがあったのだ、と改めて思い出し、父娘だけの家族なのに薄情な自分に落ち込む。
「じゃあよかったね。私もそのうちお見舞い行こうかな」
「ありがとね。でも怪我したところ以外は元気だから大丈夫だよ」
友人の親切と心配にお礼を返すと、加奈の顔が急にニヤニヤした笑い方に変わった。
「じゃあさー、パパさん退院するまで二人だけで生活するってこと? きゃあ!」
「ち、ち、違う! 昨日から伊織くん家に居候することになったから……、おばちゃん達いるし」
「えー、なんだぁ。つまんないの」
「つまんなくない!」
必死で反論しながら、桐子が思いとどまらなければ来週から一週間は伊織と二人きりの生活になるところだった、と思い至る。
もしそのような状況で、昨日のことがあったとしたら、とてもじゃないが落ち着いて顔を合わせることなどできなかったと、日本に残ることにしてくれた叔母に心の中で感謝した。
◇◆◇
桐子は文哉から預かった鍵で千堂家に入る。文哉からは、ノートパソコンやスマホの充電器、USBメモリなど、およそ入院患者らしからぬものばかり『持ってきてほしい』と頼まれたため、引取りに来たのだった。
階段をあがり扉を開けて文哉の自室に入る。
昔実家で暮らしていた頃とは、当然ながら風合いは大きく違っている。置いてある私物も、クローゼット内の服も、寝具の素材や色合いも。
それでもそこはかとなく漂ってくる薫りは文哉本人を感じさせる。桐子は思わず目を瞑って、室内の空気に体ごと浸った。
しばらくして目を開け、頼まれた機器を探してバッグへ入れる。他の依頼物を探すためにサイドデスクや書棚の抽斗を開ける。一見整然としている室内とは反対に、抽斗の中は雑然としていて、そこは昔と変わらない、と思うと、つい声を立てて笑ってしまった。
頼まれてはいなかったが、筆記用具はあったほうがいいだろう、と思い、パソコンの横に置いてあったペンケースに何本かのボールペンと万年筆を入れる。
その時、見覚えがある古びた栞が目に入った。
桐子は目を見開き、思わず手に取った。
それは昔、本当に昔、まだ祖父母が健在だった頃、二人で摘んだ撫子の押し花だった。
子どもの桐子が押したので、花弁はおかしな方向へ曲がっており、茎もよれている。しかしきれいに加工し直されていた。恐らく文哉が自分で直したのだろう。
あの頃、桐子にとって文哉と二人で過ごす時間だけが、心の拠り所だった。それが無ければ今こうしていることも出来なかったかもしれないと、改めて思い出していた。
しばし手に取って眺め、少し迷った後に抽斗へ戻した。
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