第144話

 中から返事をすると、音を立てずにそっと扉が開き、すき間から一花が顔をのぞかせた。


「ちょっとだけいい?」


 伊織は頷いて、自分の隣をぽんぽん、と叩く。一花はそっとドアを閉めて入ってきた。


「どうした? 人ん家じゃ眠れないとかか?」

「違うよ、そうじゃなくて……。あの、ごめんね」


 一花の謝罪の意味が分からず、伊織は首を傾げる。一花は寝間着の袖口をもぞもぞいじりながら下を向いたままだった。


「だって、パパが事故っちゃって、なんか伊織くん家に迷惑かけちゃったみたいで……」


 一花の様子から、先ほどの両親のやり取りを気にしているのだと気づいて、伊織はあえて明るく笑った。


「迷惑ならいの一番に飛んでったりするかよ。俺、学校早退したのなんて初めてだぜ」

「ほんと? 迷惑じゃない?」

「当たり前じゃん」


 文哉の事故は本当に不慮のもので、ましてや当事者でもない一花に責任はない。むしろ両親が自分に押し隠しているもの、いや、お互いが隠そうとしているものへの糸口が今回の件をきっかけに掴めるかもしれない。一花がノックする前に自分の内に萌し始めた考えはそれだった。

 それこそが、伊織を不安にさせている原因かもしれない、と。


「おじちゃん、予定が変わってきっと大変だよね……」

「それもお前が気にすることじゃないだろ。仕事なんだし」

「だけど」

「勘違いすんなよ」


 一花のうだうだを全否定するため、伊織はあえて途中で言葉を挟んだ。


「伯父さんが事故でケガをして入院した。お前はその家族なんだ。伯父さんの次に大変なのはお前なんだよ。だからママもお前をうちに呼んだんだ。お前を一人に出来ないからな」


 一花はびっくりしたように目を丸くし、瞬きも忘れて伊織を見つめ返した。


「もっと甘えていいんだよ。俺達はまだガキで、周りには大人がいて、全部やるって言ってくれてるんだからさ」


 黙って自分を見上げてくる一花が、不意にいるはずもない妹に見えて、気がつけば腕を伸ばして抱き寄せていた。


「一番チビのお前が遠慮してどうすんだよ。俺、明日からきっとまた何もしねーぞ」

「ち、チビ、って……悪かったわね」

「事実じゃん」


 言い返してきた一花の声に普段通りの明るさを感じて、伊織も肩から力を抜くことが出来た。急に照れ臭くなり、乱暴に一花から距離を取る。


「だから変にママの手伝い頑張ろうとするなよ。そうだ、ずっとやるって言ってて出来なかった試験勉強に集中できるよな。家事やらなくていいんだから」

「ええー? だめだめ、パパのお見舞い行かなきゃ」

「だからそれもママに任せればいいじゃん」


 言いながら、それでいいのだろうか、という警鐘が聞こえる気もした。しかし一花の負担を減らすためには、文哉の件は母に一任するのが一番自然であることも事実だった。


「伯父さんに心配かけないためにも、悪い点数取るわけにいかないだろ? だから……、しばらくは千堂家の調査も中断だな」

「え? だって……」

「いいんだよ、てか、二人で動いてたらママにバレそうじゃん」

「……それは、そうだけど、でも……」


 一花は一番気になっていることを口にする。実は父の件よりも、一花個人にとっては重要かもしれないこと。


「伊織くん……来年には、海外行っちゃうんでしょ?」


 一花はさっきよりも力を込めて伊織を見上げてくる。その真剣そのものの様子に、伊織は驚いて返事が出来なかった。


「一人でも調べるって、この間は宣言したけど……、やっぱり、ちょっと自信ないし、それに……」

「それに?」


 伊織も一花一人にやらせるつもりは毛頭なかった。自分で調べなければ納得出来ないだろう、という予想もあった。しかし一花の不安は、それとはあまり関係ないように思えた。


「もう調べたくない、っていうなら、お前は無理しなくても」

「好きなの!」

「え」


 力いっぱい叫んでから、伊織を見て、一花は再度叫び声を上げた。


「ごごごごごご、ごめんなさい! おやすみ!」


 入ってきた時の慎重さを台無しにするように、大きな音を立ててドアを開閉し、一花が廊下へ飛び出して行った。


 残された伊織は、停止した思考が復活するまでしばらく時間を要した。

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