第143話

「……現地には、行けない、か……」


 伊織の問いかけに、先に返事をしたのは広瀬だった。表情が固まったのは一瞬で、返答の声に力はなかったが、すぐにまたいつもの顔と声の調子に戻った。


「そうだな、お義兄さんが事故に遭ったのに、日本を空けるわけにはいかないな」

「ごめんなさい、電話やメールなら、いつでもつながるようにしておくから」

「今はカメラもあるしね。実際にアパートの映像を見ながら相談するのもいいね」


 広瀬は一瞬の動揺の影をすっかり拭い去っていた。今はもう微笑みながら桐子と下見について相談している。伊織は父の柔軟さに呆れて言葉も出なかった。


「あの……、もしおばちゃんが忙しいなら、私がパパのお見舞い行くから大丈夫だよ?」


 ただならぬ伊織の空気を感じ取ったのか、一花がおずおずと申し出る。が、桐子によって却下された。


「何言ってるの、普段から一花ちゃんが全部お家のことやってるんでしょ? 私がいなくなったら、兄さんの入院のお世話と二人の生活で、学校に行ってる暇もなくなっちゃう。そんなのダメよ」

「一花ちゃんが心配することじゃないんだよ。ごめんね、後で二人で相談すればよかったね」


 広瀬は息子への釘刺しも込めて一花に言い含める。申し訳なさそうな表情はぬぐえないながら、一花もそれに同意した。


「じゃあ、エアチケットも変更しなきゃな。そうだ、僕一人でもチェックできることを、前もって教えてくれる?」

「そうね、じゃああなたが出発する前に調べておくわ」


 頼むよ、というと、グラスに残った冷茶を一気に飲み干し、広瀬は立ち上がった。


「じゃあ、僕は風呂入ってそのまま寝るよ。一花ちゃん、遠慮はしちゃダメだからね、自分の家だと思って好きに過ごしてね」

「ありがとうございます! おやすみなさい」


 広瀬は一花に返事をすると、そのままリビングから出て行った。桐子は食事の後片付けを始め、一花はそれを手伝っている。

 自分以外が、おかしなほどスムーズに進んでいく様子に、伊織は逆に混乱してきた。


◇◆◇


 入浴の準備のため、一旦寝室へ戻った広瀬は、力が抜けたようにベッドに腰を下ろす。

 伊織が遠回しに訴えかけていたことが何なのかが、ようやくわかった。

 

 息を殺して階下の気配を伺う。水が流れる音で桐子がまだ下にいることを確認し、自分用の書棚の抽斗を開けた。

 いくつもの封筒の一番下に、広瀬が長年隠し続けているものがある。今はそこから出すことはない。ただ、ある、ということを、確認しておきたかった。


 封筒の端を目視し、そっと閉める。

 もしかしたら二度とここから出すことはないかもしれない。

 だが、捨てることも出来ない自分に苦さを感じ、それを洗い流すためにも着替えを持って浴室へ向かった。


◇◆◇


 スッキリしない気分を持て余しながら、伊織は久しぶりに自室のベッドに寝転がった。

 こんなタイミングで家に戻ってくるつもりはなかったし、松岡の協力も得られそうで、もっと一花と一緒に千堂家について調べられそうだったところへ、文哉の交通事故だ。一花は当面調査どころではないだろうし、母も日本に残ることになって自分もこの家に戻ってくるなら、今までよりずっと自由度が下がるだろう。


 自分が知らない母について知ることで、正体不明の母への不安が消えるかと期待した。だが、もしかしたら自分が知るべきなのは、母の過去ではないのかもしれない。


 もしかしたら……、と、何かに手が届きそうになった時、小さく部屋をノックする音がした。


「伊織くん、ちょっとだけ、いい?」

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