第142話
その日、遅くなってから広瀬が帰ってくるまで、伊織は落ち着かない心を持て余していた。
桐子たちに付き合って文哉宅と病院を行き来したり、暫く家を空けるための準備をする一花を手伝ったりして、体自体は忙しく動かしながらも、気持ちはどこか宙を浮遊しているようだった。
「ただいま」
三人が風呂も入って後は寝るだけ、という状態になって、やっと広瀬が帰ってきた。伊織は真っ先に玄関へ迎えに走る。
「お? どうした、こっち帰ってきてたのか?」
「親父、お帰り。あのさ」
「待て、待て。話があるならちゃんと聞くから」
何かに急かされるように口を開きかけた息子を、広瀬は苦笑いしながら躱す。その向こう側から桐子と、ぺこりと頭を下げる一花が見えた。
「あれ? 一花ちゃんも?」
「お邪魔してます、おじちゃん」
「おかえりなさい。あのねあなた、食事が済んだら相談があって」
桐子が先ほどの伊織と重なる。本当に何かあったらしいと分かり、頷いて階段に足をかけた。
「着替えてくるよ。とにかく腹が減って」
「そうよね、すぐ用意するわね」
ありがとう、と手を振って自室へ向かう広瀬を見送り、再びリビングへ戻る桐子たちとは反対に、伊織は父の背を追った。
「親父」
「……なんだ、下で待ってろって」
「うん、そうなんだけど……。あのさ、俺、この一カ月家にいなかったじゃん。その間に、何かあった?」
想定外の息子の質問に、広瀬は着替えの手を止める。何か頼み事でもあるのかと軽く考えていたが違うようだった。
「何か、って、家にか?」
「家、っていうか、親父とママ、かな」
「……何もなかったと思うけどな。来週現地に行くことになったくらいか? それはママから聞いてるだろ?」
一花が居るからか、広瀬はいつもの帰宅後のように寝間着ではなく、休日のような服装に着替える。そして首を傾げつつ、伊織も承知の事実だけ答えた。
「それだけ?」
「ああ……。どうした、それが気になって帰ってきたのか?」
伊織は納得が出来ず、でも自分の不安を解決してくれるのは父しかいない、という強い確信から、そばを離れることが出来ず、その場で立ち尽くしてしまった。
「何か悩みでもあるのか? 後で聞くから、まずは何か食わせてくれ」
不満げな伊織の視線が、自分とほぼ同じ高さになってきていることに驚きと喜びを感じつつ、その頭を撫でて二人で階下へ降りて行った。
◇◆◇
「……お義兄さんが?」
刺身と煮物の夕餉をつまみながら、桐子の話を聞いた。思いがけない出来事に広瀬の箸が止まる。
「それは……大変だったな。大丈夫なのか?」
「骨折が三か所と足首の捻挫だって。治れば大丈夫みたいなんだけど、怪我した箇所が多いから一カ月くらい入院するらしいわ」
「そっか。一花ちゃん、たいへんだったね」
広瀬はちょこんと座って話を聞いている一花に声をかける。一花は大丈夫、という意味か、ぷるぷると首を振った。
「じゃあお義兄さんが元気になるまでうちにいるといいよ。そろそろ伊織の修行も終わりかなって思ってたしね」
「修行、って……」
「でもいい機会だっただろう? 二人も仲良くなったみたいで良かったよ」
伊織は広瀬のとんちんかんな感想に力が抜ける。母といい、どうして自分の両親はこうも察しが悪いのだろうと、イラつきを通り越して腹が立ってきた。
「そんな大変なことがあったなら、僕に連絡してくれればよかったのに。君は車の運転出来ないんだから、タクシーで何往復もして疲れただろ」
「あなた、今忙しい時期じゃない。兄さんも元気そうだったから、夜でいいかと思ったの」
桐子の気遣いに広瀬は小さく笑う。桐子が示す気遣いはいつも、優しさと他人行儀のすき間にすっぽり収まるものが多かった。
広瀬が食事を再開したのを潮目に、話が終わりそうな空気を感じた伊織が、慌てて口を挟んだ。
「ママ、親父のこと気遣うなら、俺達に伯父さんのこと任せて来週は予定通り下見に行ったほうがいいんじゃないの?」
伊織は意を決して、父ではなく母へ問いかける。期待通り、父の表情が固まった。
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