第141話
桐子は後ろ髪を引かれる思いで二人を連れて一旦病院から出た。タクシーを探しながら二人にこれからについて相談した。
「兄さんが入院してる間は二人ともうちに来なさい。大人がいない家は危ないわ。一花ちゃんの学校には少し遠くなっちゃうけど、バスも通ってるし、遅くなったらタクシー使っていいから」
桐子の言葉に二人は顔を見合わせる。
「え、でも、ママ来週から親父と現地の下見行くんでしょ? 俺達だけで生活するなら、どっちの家でも……」
「私、行かないわよ」
「え?」
伊織はすっぱりと言い切る桐子に驚く。
「兄さんが入院してるんだもの。一花ちゃんだけに押し付けて海外行ってる場合じゃないでしょ」
そもそも広瀬が会社から現地を見てこいと言われて決まった出張だ。ついでに、ということで桐子に声をかけただけで、桐子の同行は必須ではない、と考えたのだ。
「親父、困らない?」
「そうね、もしかしたらその分出張が長引いちゃうかもしれないけど……。それは私とパパで相談するからいいのよ。とにかく二人は、一旦帰って当座の荷物を持って来なさい。ああ、二人だけじゃ大変よね、私も行くわ。……あ、タクシー来た来た」
「いや、でもさ……」
急にてきぱきと動き出した母に、伊織は強い違和感を感じた。が、呼び止める間もなく早く乗るよう急かされて、伊織の感じた不安は置き去りにされてしまった。
◇◆◇
一通りの荷物を詰め、三人で香坂家へ戻る。
「お昼は? どうする?」
さっさとエプロンを着けた桐子に、一花が応える。
「私達はお弁当あるから、それにするね。おばちゃんが何か作るなら手伝うよ」
「あら、そうなのね。じゃあ私も簡単に済ませちゃうわ」
ちゃっちゃと食事の準備を進める二人に伊織はついていけない。いざとなると女性のほうが強い、というのはこういうことなのか、と、呆然と眺めるだけだった。
「伊織は自分の部屋があるからいいわね。一花ちゃんは客間でいい? 和室だからあまり可愛くないけど」
「そんな、急でごめんなさい」
「いいのよ、もうずっと伊織がそっちにお世話になってるんだし……。午後はもう一度一花ちゃん家に行きましょう。兄さんに言われたものを持っていかないと」
「入院って大変なのかなぁ」
弁当を突きながらも、一花は早くも見舞いや看病に頭を切り替えているらしい。骨折や打撲なら、医師の指示に従って治療と療養を続けていればほぼ治る。回復へのめどが立ち、やることが定まったことが大きいらしい。
ここ最近、千堂家について調べていた間、一花にまとわりついていた影のような重さがすっかり晴れたようにも見えた。
「一花ちゃんは学校があるでしょ。洗濯物とか、病院から何か連絡があれば私がやるから心配しないで。でもたまには学校帰りに顔出してあげてね。そうしないと寂しがるから」
「パパが淋しがるとか、全然想像つかないよ?」
「それは一花ちゃんがいつも一緒にいるからよ」
一花と文哉の話に熱中する様子と、病院で『下見には同行しない』と言い切った母が重なる。伊織はたまらず途中で口を挟んだ。
「親父は? 親父には連絡しなくていいの?」
唐突に広瀬の名が出たことで、桐子は驚き、きょとんとして伊織を見返す。そして、ああ、と頷く。伊織が気にかけていることが分かった気がした。
「帰ってきたら話すわ。仕事中に事故の話聞いても驚くだけでしょ。生死にかかわるものじゃないってわかったんだから急ぐことないし」
「そういうことじゃなくてっ……」
「伊織は心配しなくて大丈夫よ。今日は本当にありがとうね。すぐに連絡してくれて助かったわ」
「私もありがとう。あの時電話もらえてすごく安心したの」
伊織が気にかかるのはそういうことではなかった。父の存在を引っ張り出したのは、連絡をしなくていいのか、ということではない。
父がいてくれなければ、いないとしてもその存在を母が認識してくれなければ、何かおかしな方向に未来が進んでいきそうで恐ろしかったのだ。
だが、ニコニコ笑い合いながら自分に礼を言ってくる二人を、今日はこれ以上悲しませてはいけないとも思った。
伊織はぐっと拳に力を込めることで、正体不明の恐怖から目を逸らした。
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