第140話

 桐子が病院へ到着するのを待ち構えていたように、正面入り口で制服姿の伊織がタクシーに向かって走ってきた。


「ママ!」

「伊織、教えてくれてありがとう。兄さん……、一花ちゃんは」

「こっち。一花は病室」


 伊織は桐子の手を掴んでエレベーターへ向かって歩き出す。『病室』と聞いて少しだけ安心出来た。手術中、もしくはもっと悪い状況も何度も頭を過ったからだった。


 都心にある総合病院は高層ビルのようで、文哉の病室も十四階だった。フロアについて扉が開くまでが信じられないほど長く感じた。

 既に場所を確認していたのだろう、迷うことなく向かって行く伊織について行く。

 伊織が立ち止まったのは最奥の個室だった。


「伯父さん、伊織です。入ります」


 声をかけると同時に、横へスライドする病院特有の扉を開けて中へ入ると、文哉の声が届いた。


「伊織くんか……、なんだ、桐子までいるのか?」


 あちこちに包帯が巻かれた痛々しい姿ではあるものの、しっかりした声の調子と笑っているらしい表情を確認し、今度こそ安堵して力が抜けてしまった。


「マ、ママ? 大丈夫?」


 伊織は今度は倒れ込んだ母の介抱をしなければならくなった。


◇◆◇


 文哉の容態は複数ヶ所の骨折と打撲で、ひと月ほどの入院が必要との診断だった。


「もーー、心配したんだからね、まじで! 心配って言うかびっくりって言うか!」


 桐子同様最悪の事態を想定して駆けつけた一花は、それほどの心配は不要だと分かった安心感で、文哉を布団の上からポカポカ叩いた。


「悪いって。俺だってまさか交通事故に遭うとはなぁ。これからは気を付けるよ」

「当たり前だよ! ……私にはパパしかいないんだからね」


 文哉だけに聞こえるくらいの小さな声で漏れた一花の言葉に、文哉は本気で反省した。自分の過失だけが原因ではないものの、娘は自分しか家族がいないのだ、ということを失念していたかもしれない。


「わかってる、もうこんなことにならないよう気を付けるから、泣くな」

「……泣いてないもん」


 ずび、と鼻を啜りながら上げた顔は、もっと小さかった時と少しも変わらないように見えた。

 文哉は一花の頭を撫でながら、ソファで横になっている桐子に声をかけた。


「お前までなんだ、いい大人が」


 湿っぽくなった病室内の空気を変えようと、あえて軽い調子を装ったが、桐子は心配と安心と怒りと恐怖が綯交ぜになった目で睨んできた。


「当たり前でしょ?! 交通事故って何よ、何で笑ってるの。今そうやっていられるのは運が良かっただけなんだからね! 一花ちゃんの父親は兄さんだけなのよ。私だって……」


 自分にとっての文哉は文哉しかいない。


 言ってはいけないことだと、桐子だって分かっていた。だから飲み込んだ。しかし、心配したこと、安堵して立っていられないほど力が抜けてしまったのはなぜか、文哉にだけは知ってほしかった。


 黙り込んで顔を覆ってしまった桐子に、文哉はさすがに反省し、返す言葉が無かった。伊織は感情に任せて怒鳴り散らす母の姿などついぞ見たことが無かったので、驚いて固まってしまった。

 しかし一花は違った。


「おばちゃんの言う通りー。私達を心配させたんだから、元気になったら美味しいとこ連れてってよね。ね? おばちゃん」


 そして何故か桐子に褒めてもらいたそうにピースサインを送る。それを見て、やっと桐子は冷静さを取り戻せた。


「……そうね、それ、いいわね」

「だよねー、おじちゃんも入れて五人で、パパのおごり!」


 何がいいかなー、と今から悩みだす一花に、他の三人は顔を見合わせ、そして同時に吹き出した。


◇◆◇


 子どもたちを病室へ残し、桐子は文哉の入院の手続きを進めた。

 病室は今の個室をそのまま使うことにし、必要な身の回りの消耗品を道路向かいの薬局で全て買い揃え、緊急連絡先として自分の名前と電話番号を看護師に伝えた。


 それ以外の着替えや必要なものは、この後文哉に確認して彼の自宅から持ってくればいいだろう。片腕は使えるようだから、それで電話はかけられるだろうから、仕事関係の連絡は本人がするはずだ。元々自分のことは全て自分でやりたがる兄だから、必要以上に口を出さないほうがいいことは分かっていた。


 そして桐子は、その日から毎日病室へ通うようになる。


 

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