第139話

 その日、文哉はオフィスに出社する前に行く場所があった。注文していたものを引き取るだけだったが、出来るだけ早く手元に置いておきたくて、気がいていたのかもしれない。


 横断歩道の信号が青に変わったのを見て、すぐに道路へ踏み出す。そこへ一台の乗用車が突っ込んできた。

 避けることも出来ず、文哉は車に跳ね飛ばされた。


◇◆◇


 一限目が始まったばかりで、まだ頭が勉強モードへ切り替わっていなかった一花の元へ、クラス担任が教室のドアを開けて駆け込んできた。


「千堂さん!」


 いきなりの大声にクラス中が驚き、一斉に一花に注目した。驚いたのは一花も同じで、思わず席に突っ立った。

 授業中だった教師に事情を説明すると、担任は一花に荷物をまとめるように言って廊下へ連れ出す。


「お父さんが事故に遭われたそうよ。先生が病院まで送るから、すぐ行きなさい」


 一花は目の前が真っ暗になった。




 車中で、いてもたってもいられず、一花は伊織にメッセージを送った。本当は文字入力をする手間すら惜しかったが、伊織も同様に授業中のはずで、そこへ電話をかけるわけにはいかなかった。


『パパが事故った。これから病院。どうしよう』


 伊織に心配をかけたくない、などと考える余裕もなかった。今の一花には、父の次に頼りになるのは伊織になっていた。


◇◆◇


「えっ……」


 授業中にもかかわらず、一花からのメッセージを読んだ伊織は思わず声を上げる。周囲に注目され、教師からも注意を受けたが、それどころではなかった。


「先生、すみません、家族が事故に遭ったので早退します」


 え? と驚く教師の了承を待たず、伊織はカバンに荷物を詰めて教室を飛び出した。廊下をダッシュしながらスマホを操作して一花に電話する。当然一花の応答は早かった。


『伊織くん? あれ? 授業中じゃないの?』

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! 病院どこだ、俺もこれから行く」

『ほ、ほんと?』

「ああ。あと、ママにも連絡する。お前は先に着くだろうから、どこに行けばいいかだけ送っとけ」

『う、うん、ありがとう……』

「ばか、泣くな」


 伊織は一花との通話を終えると、そのまま桐子に電話した。両親が海外へ行く前で良かったと、不幸中の幸いに胸をなでおろしながら。


『どうしたの、学校でしょ?』

「ママ、伯父さんが事故に遭ったって一花から連絡来た。俺もこれから行くから、ママも来て」

『事故……』

「帝東大付属総合病院だって。それ以上のことは分かった時点で一花から連絡来るはずだから……、ママ?」


 電話は繋がっているはずだった。だが、母から返事が返ってきたのは少し後になってからだった。


◇◆◇


 伊織から病院名を繰り返し伝えられ、やっと桐子は遠くなっていた意識が戻ってくる。

 文哉が事故に遭った。

 それを聞いた時点で、周囲から音と色が無くなった。耳元で息子が何か話しているのは感じているが、まるで内容が理解出来ない。


『ママ? 聞いてる? うちから近いから、すぐ来れるよね、ママ?』


 手が震えるが、電話は落とさずにいられたらしい。不審がった伊織が途中からこちらの安否まで気遣いだした。何度目かの強めの呼びかけで、やっと返事が出来た。


「ごめん、びっくりして……。ありがとう、すぐ行くわ。こっちは大丈夫だから、あなたは学校へ戻りなさい」

『早退するって言ってきたから大丈夫だよ。ママもだけど、一花も心配だし。じゃあ、電話切るよ。病院着いたら電話してね』


 伊織との通話が終わり、急いで家を出ようと気持ちだけが焦る。しかし体がついてこず、ダイニングテーブルにぶつかり転んでしまった。


(兄さん、うそでしょ、早く、早く行かなきゃ……)


 普段なら必ずするはずの外出前の確認をする余裕もなかった。家から出てすぐに空車のタクシーを見つけた時は、それだけでほっとして力が抜けそうだった。


 

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