第138話
その小切手をどうしたのかは、子どもだった各務には知らされなかった。しかしほどなくして父は元の会社へ復帰し、兄も復学が叶ったと母が喜んでいたことを覚えている。
もしかしたらその時が、一家にとって一番幸せな時期だったかもしれない。幸せを実感するには短い、ほんの数日の間でしかなかったが。
兄が何をしたのかを知るのは、そのずっと後のことだった。
◇◆◇
届いた郵送物や宅配便をサイドデスクに積み上げ、秘書が退出していった。
松岡は、その小山の中から少し厚めの封筒を引き抜く。ここ数日心待ちにしていた資料だった。
(こんなことばかりやってる場合じゃないんだがな……)
昨今の景気低迷で外資系企業の日本企業に対する買収攻勢が高まっている。当然言われるがまま身売りするわけにもいかないため、最後の砦とばかりに松岡を頼ってくる企業は後を絶たない。お蔭で弁護士だけでなく他のスタッフも連日残業含めて業務を回している。
看板であり代表である松岡も例外ではない。ただ、健康であってこそ仕事の質も上がる。どんなに忙しくても休日出勤だけはするな、家に持ち帰るな、ということは厳命していた。スタッフが規定通りの休日を取得することであふれる業務量は断るか、または松岡が自ら受け持つか、知り合いを紹介していた。
傍から見ればワークライフバランスを重視する、ともとれるが、松岡自身が二十四時間仕事で埋め尽くされることが嫌いなだけだった。
抽斗からペーパーナイフを出して封を開ける。クリアファイル数冊分の中身をデスクへ出し、一番上の挨拶状を丸めて捨てると、一番見たかったものを引っこ抜いた。そのまま一通り目を通す。三十分ほどしてようやく資料から顔を上げた。
川又裕之。
それが、各務の本来の、生まれた時につけられた名前だった。
両親は、これは最初の依頼を受けた時点で知っていたが既に故人。家族は他に、一回り上の兄と、一才違いの妹がいるらしい。
両親が亡くなるより前に、各務だけが養子に出されている。そして成人後に手続きをして改名。今の『各務靖』が出来上がった。
両親は共働きだが、都内の団地の一戸を購入し家族で暮らしていた。次男坊を養子に出した先は親族でもなんでもなく、その理由は現時点ではまだ調べがついていない。養子に出さなければいけないような経済状態でもなかったらしい。事実、末妹は川又姓のまま、今は端役ながら女優をしているようだった。
その経歴にたどり着いたところで、松岡の手と目と頭が止まる。
(……女優?)
自分とはほぼ、全く縁のない職種だ。しかし。
(まさかあいつと関りがあったりしないよな)
嫌な胸騒ぎがしてじっとしていられず、業務時間中にもかかわらず愛人に電話をかける。しかし予想通り、桐子の応答はなかった。スマホの画面をオフにしながら小さく舌打ちする。
(そういえば、あいつらはあれからどうしてるかな)
伊織と一花を思い出しながら、資料を再び封筒へ戻し、デスクの一番下、鍵がかかるキャビネットへ仕舞った。
◇◆◇
剣は、環から送られてきた来週のCM撮り直しスケジュールを見ながらパソコンで航空会社のサイトを開いていた。
パスポートは確かに持っている。しかし海外に行ったのは劇団の先輩に連れられてミュージカルを見に行った時だけで、その時も空港スタッフやホテルの従業員とのやり取りは全て先輩がしてくれたので、剣は文字通りついて行っただけだった。
だから実際にはどんな手続きが必要なのか分からないし、当然英語などひとかけらも話せない。
それでも、『俺も行く』と桐子へ行った言葉を嘘にしたくなかった。きっと桐子に知られたら呆れられて怒られて、もしかしたら強制的に日本に帰されるかもしれないが、剣は自分の意志を曲げるつもりはなかった。
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