第137話

 一人暮らしの各務は、普段から食事にはほとんど気を使わない。食べようが食べまいが、何を食べたとしても誰も文句を言わない。そもそも各務の生活を知る人も興味を持つ人もない。

 それを淋しいと思うことはない。昔は思ったのかもしれないが、むしろ今はその利点だけを見るようにしている。


 冷蔵庫から缶ビールと安いチーズを出し、缶を開けて一気に半分ほど飲み干す。ビールが好きなわけではない。酒なら何でもよかった。


 焦点の合わない目で窓の外を見遣りながら、忘れたくても忘れられない記憶を辿っていた。


◇◆◇


 細い雨が間断なく降り続く日だった。共働きの両親はまだ仕事だ。小学生だった各務は学校から帰ってくるとランドセルから教科書を出し、今日の分の宿題を片付けていた。

 しばらくすると、バン! と大きな音を立ててアパートの玄関が開いた。驚いて子供部屋から飛び出すと、ずぶぬれになった兄の一成が、息を切らして座り込んでいた。


「にいちゃん……、どうしたの?」

「ヒロか……、なんでもない」

「でも……」

「大丈夫だ。風呂、入るわ……。母さんたちには言うなよ」

「……え?」

「いいから、……黙ってろ」


 普段は穏やかで優しい兄が、最後の一言だけは別人のように恐ろしい目つきと声音で言い含めてきた。驚いて、言われるがままにコクコクと頷いた。

 その横を通り過ぎる兄の体が、肩や背だけでなく、全身に泥がついていたことが、やけに克明に記憶に残った。




 それからどれほどの月日が経ったのかは定かではない。小学生だった各務と妹は既に眠りについていた時間帯だったが、突然居間のほうから父の怒鳴り声が聞こえてきて、二人で飛び起きた。


「お兄ちゃん……、今の、お父さんの声だよ、ね?」

「うん……、なんだろ」

「怖いよ、どうしよう」


 震える妹を宥めるために、お互いしっかりと手を握り合う。兄、とはいえ、自分と妹は一つしか違わない。自分も同じくらい怖かった。

 当然寝直すことなどできない。狭い家の中で、父の声は否応なく耳に届いていた。


「なんてことをしたんだ……っ! お前、どうして今まで黙ってた!?」

「……父さんには関係ない」

「関係ないわけないだろう! ……これから警察に行こう、着替えろ」

「いやだ」

「……なん、だと?」

「俺は逃げるつもりはないよ。でも……本当に悪いのはあっちだ!」

「悪い、って……」

「そうだろ!? 父さんが会社を首になったのは、あいつらのせいじゃないか!」

「お嬢さんは関係ないだろう! お前は無関係の女の子に暴力をふるったんだぞ!」

「同じだよ! 父さんが首になったせいで俺は大学をやめなきゃいけなくなったんだ! だったら、あいつらの娘が報いを受けてもおかしくない!」

「バカなことを言うな!」


 最後の怒号の後、それ以上の破壊音と、甲高い母の悲鳴が響いた。隣にいる妹は震えながら泣き出している。各務も同様に泣きたかった。しかし、それどころではない非常事態を、子どもながらに感じ取っていた。


 しばらくするとパトカーのサイレンが聞こえた。近隣住人が騒音を聞きつけ通報したようだった。

 訪ねてきた警官に、両親が謝罪する声が聞こえる。数分後扉が閉まり、うって変わって物音ひとつしなくなった。

 各務と妹は、そのまま朝まで手を握り続けていた。




 その夫婦が、狭い団地の一室に現れたのは、その騒動からまたしばらく経ってからだった。

 母から『部屋から出ないように』と言われて、慌てて駆け込む。その時チラリと見えたのは、父より恰幅の良い男性と、冷たい目で家の中を見回す中年女性だった。


(誰……?)


 そう思ったが、興味よりも恐怖が勝った。部屋の扉を閉めると、また怖い声が聞こえてこないよう、頭まで布団にくるまってじっとしていた。


◇◆◇


「……示談、とは」

「そのままの意味です。示談金はご希望の金額をお支払いします」

「ちょっと……、待ってください、加害者は息子です。会長のお嬢さんは被害者で」

「あの子の落ち度です」


 千堂政継の隣から、妻の志津子が針のように鋭く細い声で割って入ってきた。


「娘自身の油断が原因の、あれは事故です。お宅様が黙っていて下されば無かったことになるのです」

「しかし……。お嬢さんは、ずっと入院されていると……」

「そのほうがまだ外聞がいいでしょ? 落ち着くまでずっと入れておくつもりです」


 実の娘に対するものとは思えない、にべもない冷たい言葉に、川又夫妻は絶句する。自分達が息子ともども非難されて当然なのに、相手は口止め料として示談金の支払いを提案してきた。


「しかし、息子は……」

「必要なら、息子さんが退学した大学に復学出来るよう口利きします。あそこは夫の知り合いが学長ですから」


 勝手に話を続ける妻に、政継は苦い顔をしながら頷く。


「とにかく、こちらとしては息子さんを責めるつもりはありません。ただ、この件が世間に広まらないよう協力していただきたい。これはそのための資金援助です。受け取っていただきたい」


 そう言って政継は、金額が入っていない小切手を差し出した。

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