第134話

「突然すみません。あの、私今回出演させていただく川又といいます」


 緊張しているのか、少し頬を紅潮させてぺこりと頭を下げる。配役は決定前に逐一坂井から共有されていたので、桐子も知っていた。


「こちらこそ、はじめまして。香坂です、よろしくお願いします」

「あ、あの……、握手してもらってもいいですか?」

「……え?」


 唐突な申し出に桐子は驚くが、初めての経験ではない。恐縮しつつ荷物を椅子に置き直して、右手を差し出した。

 川又、と名乗る女優は、両手でその手に飛びついた。


「あの! ずっと昔からファンでした。あの、私、頑張ります!」

「ありがとうございます。撮影は来年からみたいだけど、よろしくお願いします」

「はい!」


 ゆりちゃーん、と遠くから呼ばわる声が聞こえた。それに反応して振り向き手を振る様子で、桐子は女優の名前を思い出していた。川又友梨かわまたゆり、と。


「じゃあ、あの、失礼します!」


 再びぺこん、とお辞儀して、呼んでいた人のほうへ小走りで向かって行った。

 その後ろ姿を見送ると、既に会議室には坂井と後片付けをする数人の社員、それから剣が残っているだけだった。


 桐子が坂井に挨拶をすると、剣も偶然を装いながらついてくる。『あいつ嫌い』と言っていたのに、桐子が出た後しばらくは雑談を続けていたのはカモフラージュのためか、と思うと、その努力が微笑ましかった。


 ビルを出ると一陣の北風が通り抜け、思わず肩をすくめる。薄手のコートの前を掻き合わせると、後ろから肩を叩かれた。


「待ってくれてもいいじゃん、歩くの早いよ、ほんと……」


 困った顔をして、急いで追ってきたように苦情を申し立てるが、息は少しも乱れていない。剣の若さゆえ、そして自分との違いを感じていた。


「会議前に言ってたこと、全部聞いてない。お茶でもしませんか、

「じゃ、劇団行こうか。ついでに植田さんに相談があるし」

「ええーー……」


 あっさり目論見を邪魔された剣は情けない悲鳴を上げる。しかし桐子は小気味よさげに小さく笑うと、通りかかったタクシーに手を挙げた。


◇◆◇


 会議室を出た友梨は、人気のない場所でスマホを取り出す。メッセージアプリを起動し、一言だけ送信した。


『私も頑張るからね』


 メッセージはすぐに既読マークがつく。しかし先方からの返信は無かった。


◇◆◇


「お邪魔しまーす」

「おう、来た来た。お前ら昼めしは? 俺達これから弁当注文するんだけど、食うか?」

「はい、お願いします。田咲くんは?」

「ほらー、だから外で食ってからにしようって言ったのに……。俺も食います。つか大盛で」


 めんどくせえなぁ、とぶつぶつ言いながら、植田は店に電話をかけようとしている団員に、二人分追加する旨を伝える。桐子は稽古場の入口から顔だけ出し、次公演の出演メンバーに挨拶した。


 事務室でインスタントの緑茶を煎れると、それを持って二人で休憩室へ向かった。


「で、来週いないってどういうことだよ」


 椅子に腰かけながら、待ちきれずに剣から切り出す。他の団員が稽古中だという安心感か、二人だけの場所じゃないのに敬語を使わない。安心感というより、言葉遣いに気を配れないほど切羽詰まっているのか。


「そんな怖い顔しないでよ。現地の下見。夫が会社に言われて住まいとかオフィスの確認に行くんだけど、それに同行するの」

「なんで桐子さんまで行くんだよ。そんなの旦那さんだけで行かせればいいじゃん」

「実際に住むとなったら、周辺環境や街の治安がどんな状態かを知っておかなきゃいけないでしょ。息子だって行くんだし。だからよ」

「……帰ってくるんだよね?」

「だから下見って言ってるでしょ。まだこっちの公演も、ドラマの撮影も始まってないのよ。全部終わるまでは移住しない、っていうのは夫も了承済みよ」

「俺も行っていい?」

「……は?」


 唐突な剣の申し出に、桐子は比喩でなく本当に頭が真っ白になった。


「パスポート持ってる。公演出ないしドラマの撮影も始まらないし、俺も来週空いてる。今からホテル取れば」

「バカじゃないの、時間があるなら体づくりしたりバイトしたり役作りしたり、とにかくやることはいくらでもあるでしょ」

「海外にいても出来る」

「君まで来る意味が分からないわ」

「俺には意味があるんだよ。桐子さんのそばにいられる。それだけでいい。桐子さんがいない東京に用はないよ」


 冗談か、と流そうとしたが、彼の剣幕がそれを許さなかった。どうすれば治まってくれるのか、と焦りを感じ始めたところで、野太い声に呼ばれた。


「おーい、飯来たぞー」

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