第126話
「……ということで、本当に申し訳ないけど、もうしばらく伊織を預かってもらってもいいかしら」
『なんだ、そんなことか。全く問題ないよ』
「ごめんね、おみやげ買ってくるから」
『バカ、そんなこと気にするな』
「でも、面倒見る人間が二人になって、一花ちゃん大変なんじゃない?」
『……俺もカウントするな。最近は買い物の荷物持ちさせたり、洗濯物畳ませたり、楽しそうに一緒に家事やってる。心配するな』
「それなら良かったけど……」
文哉へ伊織の下宿期間の延長願いと、広瀬と二人で現地の下見へ行ってくる件を伝えるために電話をした。桐子は文哉から伝え聞く伊織の様子に安堵しながら、やはり自分達の手にあるよりも伊織の成長が早いことに淋しさと反省を繰り返していた。
『先週は二人で図書館に行ったりしてたぞ。一花の成績が上がるなら、むしろずっと居てもらってもいいくらいだな』
「冗談でも迷惑かけすぎるわ。でも伊織が出来ることがあったなら良かったわ」
『お前は? 急に寒くなってきたけど、風邪とか引いてないか?』
「……大丈夫よ、兄さんこそ変わりない?」
『大丈夫だ。お前は昔から冬に必ず一度は寝込んでたからな、気を付けるんだぞ』
「子どもの頃の話でしょ? 心配しすぎ」
『まあな』
お互いに懐かしさを交わし合いながら笑う。確かに昔は寒すぎたり暑すぎたりするとすぐ寝込む子どもだった。長じるにしたがって回数は減っていったため桐子自身も自分のそうした特性を忘れていたが、文哉は覚えていたらしい。そして十分すぎるほど大人になっているのに未だに心配してくれることが嬉しかった。
「そういえば、覚えてる? 兄さんが中学の時……」
既に電話をかけた用件は全て話し終わっている。しかし名残惜しくてつい関係ない思い出話を引っ張り出した。
そして文哉もそれに応えて会話が続く。それだけで、桐子は報われるような気がしたし、どうせなら約束を取り付けて会いにいけばよかった、とすら思う。
「桐子? 今大丈夫か?」
文哉との会話に浸りきっていたところへ、広瀬がドアをノックしてきた。その声に、ガクン、と階段を踏み外すような感覚と共に現実に引き戻される。
広瀬の声は電話の向こうの文哉にも聞こえたようだった。
『じゃあ、気を付けて行って来いよ。広瀬くんによろしくな』
あっという間に電話は終わった。まだ耳に残っている文哉の声を、彼の温もりそのもののように大事に味わいながら、スマホを充電器へ戻して扉を開け、広瀬の元へ向かった。
◇◆◇
通話を自分から切って、文哉はしばらくそのまま目を閉じる。
不意に二人の間に入ってきた広瀬の声に対して感じた嫌悪感に、自分で腹が立っていた。
広瀬は妹の夫として申し分ない。いや、それ以上の男だと分かっている。だから桐子が彼と結婚したいと言ってきた時、文哉も反対しなかった。
実際、結婚した後も妻と子を十分以上に大事にしつつ、仕事でも人並み以上の結果を残しているようだった。それは一家の暮らしぶりを見れば分かる。
桐子が不自由ない生活を送り、自分の仕事も好きにさせてもらっている現状に、兄として感謝こそすれ、落胆する必要など何一つない。
しかしそれこそが、文哉の本心だった。
広瀬が桐子を十分に、それは世間一般の十分ではなく文哉が考える『必要十分』レベルに達しない時は、それを理由に子供ごと引き取るつもりでいた。その時桐子がどう考えるかは分からないが、文哉は桐子が自分に反抗する状況を想像出来なかった。
広瀬はこれからも出世するだろう。桐子自身の仕事も順調だ。
(それのどこが不満なんだ、俺は……)
どこからどう見ても幸せそのものの妹一家の不運を、今でもまだ待ちかねているような自分に呆れながら、文哉は飲みかけのバーボンを一気に飲み干した。
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