第125話

「ま、おひとつ」

「すみません」


 松岡は各務を誘って割烹料理店へ来ていた。看板も出していない、古い邸宅が並ぶ一角にある老舗なので、自分達以外には廊下ですれ違った歌舞伎役者の一団くらいしかいないようだった。


「いいところですね。こんな座敷、初めてですよ」

「良い大人が二人で居酒屋というのも、むしろ周囲の迷惑になりそうですしね」

「松岡さんは有名人ですからね」

「あれは失敗しました。これからは目立つ仕事は控えようと思っているんです」


 テレビへの露出が増えたことも、桐子と距離が出来た理由の一つだった。


『あなた目立つから嫌』


 とはっきり言われた。元々桐子は自分に対して思ったことをそのまま言っている節があるが、面と向かって女から拒否された経験が無い松岡は、その時面食らいながら新鮮さも感じていたことを思い出した。


「でもどうしたんですか。私なんか誘ってくださって」

「あれから、御社ではどうなったかお伺いしたくて。すみませんね、お忙しいのに」

「ああ、千堂家の屋敷の件ですか」


 突き出しの煮凝りを突きながら、各務が頷く。


「社内での決裁はおりそうです。ただ、屋敷を取り壊すと価値が半分以下になりますから、やはりそこはどうにかご当主を説得できないか、と思ってますね」

「本当ですか、それ」


 松岡の平坦な声音に、各務はハッとして顔を上げる。見れば松岡は食事どころか盃にも口をつけていなかった。


「決裁って、誰のですか。そもそも、不動産管理会社ってどこにあるんですか」


 各務は、初めて松岡の本気の目線を正面から受けた。

 急場において人の脳は急速回転する。様々な状況を想定し、自分の身の安全を最優先に考えて最適解を探す。無論この時の各務も同様だった。


 時間は秒に足らない程度だっただろう。しかし結論を見出した時、各務は疲弊しきっていた。

 持ったままの盃を音を立てずに卓へ戻すと、乾いた笑いを漏らした。


「……やはりあなたがライバルになったのは運が無かったようですね、私の」


 そう答えた各務の顔は、先ほどまでとは別人のような酷薄さに覆われていた。松岡は慣れ親しんだ感覚が湧き上がるのを感じる。裁判で被告人を目にした時と同じだ。まだ完全に底をさらけ出していない、ここからが本番だ、と思わせるものだった。


「あなたの心安さに油断しました。少し考えれば、松岡さんがあちら側の人間だと分かって良さそうなものなのに」

「あちら側?」

「そうでしょう? ご当主の妹御のことですよ」


 ずばりと切り出されたことで、今度は松岡の頭脳がフル回転する番だった。しかしここは法廷ではない。法律は関係ない。


「やはりご存知でしたか」


 松岡が否定することを想定していたのだろう、一瞬だけ意外そうに身を引いたが、すぐにいつもの各務の顔へ戻って笑った。


「お認めになるんですね、さすが、肝の据わった方だ」

「慣れているんでね、あなたのような人間と話すのは」

「……私は犯罪者じゃありませんよ?」

「もちろん。犯罪者、なんて言ってませんよ。私も刑事裁判はほとんど経験ありません」

「では……?」

「取引き、ということです」


 松岡はあえて足を崩し、胡坐をかいて姿勢を楽にした。手を伸ばし銚子を取り上げ、各務の盃へ注ぐ。


「あなたがやろうとしていることを教えて欲しい。私は桐子を守りたい」

「それのどこが取り引きなんです?」

「こちらにも色々事情があるんですが、まあどれもどうでもいいものばかりです。ただ、桐子が傷つけられるのは見過ごせない。私の望みは、桐子が無傷であることです。それを飲んでくれるなら、他の誰を差し出してでも、私はあなたの側につきましょう」

「……なるほど、日本でも指折りの詐欺師を無報酬で雇えるということだ」


 詐欺師、と呼んだことで松岡を揺さぶるつもりだったが、予想に反して愉快そうに大きな笑い声をあげた。


「確かに、俺みたいな弁護士は、弱者を守る法の番人というよりも、法律を利用して巨利を得る詐欺師と呼ぶ方が近いかもな」


 松岡は段々と愉快な心持になってきた。そして自分が、一人の女のために全てを犠牲にしようとしているような快感が、酒よりも強く全身を駆け巡った。


「手を組みませんか。あなたの望みを、聞かせてください」

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