第2話

『香坂先生の脚本で主演するのが夢なんです』


 初めて会ったとき、田咲剣たさきけんは真っ白な歯が見える爽やかな笑顔でそう告げながら、桐子に握手を求めてきた。

 さして有名でもない自分の舞台に立つのが夢、というのが解せず、複雑な思いを隠さないまま握手を返すと、ぎゅっと強く握られて、驚いて手を引っ込めた後に、剣に意地悪気に睨まれたことを今でも覚えている。


 演劇未経験のままこの劇団に飛びこんだ剣は、若手が出世するのは難しい文芸系の劇団で、既に役名もセリフも付く役者に成長していた。

 一番大きな理由は彼のビジュアルだろう、と、誰もが思っていた。

 舞台に立つ役者に努力は不可欠だ。しかしその努力を一瞬で凌駕してしまうのが、持って生まれた容姿や体格、そしてスター性だ。剣は努力もするが、その全てに恵まれていた。

 ルックスの良さは当然注目を集め、あっという間に人気もついた。今所属している劇団はそれほど大手ではないため、いずれヘッドハントされて大きなところへ移籍していくだろう、と、団長の植田太一はため息をつきつつ、


『うちの卒業生が活躍するのはいいことだよ』


 と目を細めているのを思い出していた。


「桐子さんも飲む?」


 シャワーを浴び終わった剣が、腰にタオルを巻いただけの姿で戻ってくる。髪がまだ濡れたままだった。なぜかドライヤーを使うのを面倒がっていつも自然乾燥させようとするのを、息子と同じように扱わないよう気をつけながら、缶ビールを受け取る。


「どうだった?」


 ぷしゅ、と缶を開けながら剣が今日の舞台の感想を聞いてくる。目の輝きを見れば、彼自身今日の自分に満足しているだろうことが伺えた。


「うん、聞いていた通り美味しい役ね。剣くんが出てくると観客がドキッとするのが分かったよ。話の流れが変わるのね」

「そうなんだよ、だから上川先生からも印象的に、ってそればかり言われたんだ」


 演出家の上川は剣を殊の外買っている。出は多くないながら、観客の印象に残る強さでいえば主役と並ぶいい役だった。


「出来てたと思うよ。剣くん、舞台で目立つしね」

「ひょろひょろ背ばかり伸びて嫌だったけど、今は感謝かな」


 言いながら、長い脚を組みなおす。そしてそのまま桐子に覆いかぶさってきた。


「……千秋楽まで、頑張ってね」

「もう観に来てくれないの?」

「時間が出来たら、ね。ご褒美、考えておいて」

「また、それ」


 剣は桐子の首筋に顔を埋めながらため息をつく。


「俺、そういうのが欲しくて桐子さんと会ってるんじゃないよ」

「分かってる。でも」

「俺の舞台観に来てくれて、こうして会えればいい」

「じゃあ、お花贈る」

「それってさ」


(楽も来ない、ってことか……)


 剣の二度目の溜息は、桐子の大袈裟な喘ぎ声に搔き消された。


◇◆◇


 タクシーが自宅前に着くと、まだリビングの灯りが付いているのが見えた。


「まだ起きてたの?」


 夫の広瀬だとばかり思っていたら、リビングにいたのは息子の伊織だったので驚いた。


「明日も学校でしょ。寝坊しても知らないわよ?」


 テレビは桐子の知らないタレントが楽し気な笑い声を立てている。部屋にもテレビがあるのにここにいるということは、自分か広瀬に用事でもあったのだろうか、と思いを巡らせる。


「おかえり、ママ」


 しかし伊織はニコっと笑ってそう言っただけで、自室へ引き上げていった。


(……?)


 伊織の行動の意味が分からず首をひねる。しかし何も言わないなら無理に話を広げる必要はないし、それをするに妥当な時間帯でもなかった。


 桐子は湯を沸かし直し、二度目の汗を流す。さすがにこのまま夫婦の寝室に入るほど、無神経にはなれなかった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る