第3話
パソコンを前に、桐子はトントン、と爪でデスクを叩く。どうにもうまい表現が思い浮かばず、筆が先へ進まない。
桐子は文書を保存し、ノートパソコンの電源を落とした。ここで悶々としていても解決しない。洗濯でもしようかと腰を上げたところでスマホが鳴った。
すぐに音が止まる。電話ではなくメッセージだったらしい。
誰からか、どんな用件か。
見なくても分かっていた。
気づかないふりをして、階下へ降りて行った。
◇◆◇
「お前は俺のメールを必ず一度無視するな」
十四郎は桐子の髪の先を指でもてあそびながら、つい恨み節が漏れた。
「無視なんかしてないじゃない」
「でもすぐに見ないだろ。あと返事も」
「あなたと違って配慮が必要なのよ、私にはね」
「不倫妻が何を偉そうに」
くくっと笑うと、少し強めに髪を引っ張る。痛い、と悲鳴を上げる桐子を楽し気に見下ろしながら肩を抱き寄せた。
「広瀬は元気か?」
「そうね」
「素っ気ないな」
「こんなところであの人の話はしたくないわ」
無表情で会話を打ち切ろうとする桐子に、十四郎は嗜虐的な愛しさを覚える。一見絵に描いたようなセレブ妻だが、素直に自分の言うことを聞いたことが無い。それは上司と部下の関係だった時からずっとだった。
「それは、俺もだ」
言って、左腕は桐子の肩を抱いたまま、右腕を膝裏に回して抱き上げる。こうされることを桐子が嫌がることを分かった上で。案の定、丁寧に化粧を施した額に不快そうな皺が寄った。
(昔から変わらない。本当にいつも勝手な人)
しかし、だからこそ桐子にとっては都合が良かった。十四郎が自分の欲にだけ忠実でいてくれるから、桐子も妙な罪悪感を感じなくて済む。
前職を退職して十年、まさか広瀬と共に仲人を引き受けた後輩の結婚式で、新郎側の親戚に、この松岡十四郎の姿を認めた時は心底驚いた。
それは十四郎も同じだったらしく、式が終わった後に真っ先に声を掛けられた。久しぶりに食事でもしよう、と言われ、請われるままに連絡先を教えたのが間違いだった。
「こんなことしてないで、再婚でもしたら?」
有名な政治家の汚職事件で弁護士を務めてから、十四郎はメディアに出ることも増えていた。磊落な十四郎は、自分の粗相のせいで二度も結婚に失敗したことを隠しもしないが、五十も半ばで独り身なのは具合の悪い立場ではないのだろうか。
「なんだ、お前もとうとう離婚する気になったか」
「何の話? あなたの再婚と私達夫婦は何の関係もないでしょう」
ベッドに下ろされながら、自由になった右足で十四郎を軽く蹴り飛ばす。だが背も高く筋肉質な十四郎は、その程度では何も反応しない。
「もう息子もデカくなっただろ。いい加減自由になったらどうだ?」
自由、という言葉に、桐子は一瞬気が遠くなりそうだった。
そうなれたら、どんなにか……。
しかし、自分にとっての自由と離婚は全くイコールではないと気付いた。
ふと、重なりかけた十四郎の顔が別の顔に入れ替わって、驚きで悲鳴を上げそうになった。
「っ、どうした? 俺、まだ何もしてないぞ」
「違うの、ごめんなさい、何でも」
ない、と言いかけた時、桐子のバッグから呼び出し音が鳴る。その音と、今さっき見えた幻がリンクして、現実感を失う。
十四郎の身体の下からすり抜けてスマホを取り出す。
(ああ、やっぱり……)
まるでその人が目の前に現れたような喜びで、ぎゅっと端末を握り締めた。
「ごめんなさい、帰るわ」
驚きと、そして呆れたような男の声を背に、桐子はホテルの部屋の扉を閉めた。
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