咲いてはならない紫花

兎舞

第1話

「いってきまーす!」

「待って、ほら、お弁当!」


 カバンを手に飛び出そうとする息子の伊織いおりを、桐子とうこは慌てて呼び止めて弁当の包みを渡す。


「やべっ、忘れるとこだった」

「慌て過ぎだってば。ほら、ちゃんと仕舞って……。はい、いってらっしゃい」


 ぽん、と背を叩いて送り出す。鉄砲玉のように玄関から走り出す息子に呆れたため息をつきながらダイニングへ戻る。

 テーブルでは、コーヒーの最後の一口を飲み干した夫の広瀬が、桐子同様に笑っていた。


「二年生なのにキャプテンになったんだろ。だから張り切ってるんだな」

「張り切るのと忘れ物ばかりするのは別よ。ほんとにもう」


 伊織の落ち着きのなさは子どもの頃からだった。発達上に何かしらの障害でもあるのかと色んな専門機関を訪ね歩いたが、異常ではなく伊織自身の性格だという結果に落ち着いた。


「学校が楽しいんだよ。いいことじゃないか。弁当を忘れて困るのはあいつ自身なんだから、もしそうなっても放っておけばいいさ」


 鷹揚に笑いながら桐子を慰める広瀬に、やっと素直に頷き返せた。


「大人になったら、あなたぐらい落ち着いてくれるといいんだけど」

「それは大人じゃなくて、年食ったってことか?」


 少しだけ口をへの字にしながら、見上げてくる桐子の頬を突く。ふふ、と笑う妻に満足し、自分の鞄と車のキーを持って玄関へ向かった。


「今日は打合せだっけ?」

「うん。終演後の予定だから、帰りは遅くなるわ。ごめんなさい」

「仕事なんだから、気にするなっていつも言ってるだろ」

「ありがとう。夕食は温めるだけにしておくから」


 分かった、と頷いて、広瀬は出て行った。


 慌ただしく賑やかな朝の団欒が終わった。

 桐子は、ふう、と一息つくと、食器の片づけを再開する。

 ひと段落したら自分の仕事を開始する。夜の打ち合わせに向けた準備もしなくてはいけない。


 夕食はせめて二人の好物を一品ずついれておこうと、冷蔵庫を開けてたらない材料を確認する。


(そんなことで罪滅ぼしにはならないけれど……)


 ピーピーピー、と冷蔵庫から警告音がなり、慌てて扉を閉めた。


◇◆◇


 幕が下りた後のざわめきは、上がる前の緊張感と同じくらい好きだった。桐子は他の観客が列になって出口へ向かうのを、座席に座ったまま眺める。

 四つ折りのパンフレットを開き、演者一覧やスタッフ名を眺めていると、背後から肩を叩かれた。


「来てくれてありがとう、待たせてごめんね」


 まだ退場しきっていなかった観客が彼に気づき、小さく歓声があがる。

 今日の舞台にも出演していた俳優の一人が、まだドーランを落としていないまま、笑って立っていた。


「お疲れ様」


 笑顔で答えながら、桐子は、差し出された手は気づかないふりをして取らなかった。


◇◆◇


「なんだー、ママ今日も仕事かー」


 帰宅後、テーブルに残された桐子からのメッセージを見て、伊織は口を尖らせる。

 友人たちが軒並み『お袋』呼びに切り替わっている今でも、伊織は桐子を『ママ』と呼んでいるので、さして親しくないクラスメイトを含めてマザコンの称号を戴いている。

 しかし伊織にとってはそのほうが違和感がないから呼び方を変えるつもりはない。むしろ、他所の母親よりも若く綺麗に見える桐子は自慢なので、自分がマザコン扱いされているほうが何かと便利なのでは、とも思っていた。


 しかしフリーランスで脚本家をしている桐子は、不定期に仕事のため家を空ける。基本的に在宅で帰ればいるはずの母がいないのは、子どもの頃からのこととはいえ伊織は不満だった。


 指示通り冷蔵庫を開けると小ぶりなシチュー鍋が入っている。父が帰ってきたら温めて食べろと言うことだろう。


(親父もママを甘やかし過ぎなんだよな)


 自分の両親だが、夫婦のことはよく分からない。仕事から帰ってきて妻がいないことに父は不満はないのか、と、その心の広さがたまに恨めしくもあった。

 

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