5日目

氷枕や保冷剤を使って、夜の夏を凌ぐことにも慣れてきた。


ここにきてから、朝はぶよぶよになった保冷剤を冷凍庫に入れることから始まる。


顔を洗ったら朝ご飯。


みそ汁のお椀を持ち上げた時に、


「今日は近所の人がうちにくるけん、セイくんも家におってよー。」


と叔母に言われてしまった。

この町に来てからまだ数日だけど、スイと会うことが楽しみになっているから残念だ。


仕方なく返事をして、お客さんの訪問を待つ。


しばらくして、数人が家に上がってきたと思ったら、一気に賑やかになった。

声の大きいおじいさんに、噂話の好きなおばさんに、大きなスイカを持った近くの農家のおじさんに…。


都会ではあまり見ない光景だから新鮮だ。


叔母は慕われているなあと思いながら、スイカを食べる。もう数日連続のスイカには、仕方がないとはいえうんざりだ。


今日、窓から見える空には雲一つない。


「8時…。」


スイが言っていた時間を思い出した。

僕がこの町にいられるのは、今日と明日と…あさっての朝だけ。






近所の人たちは、嵐のように来て、嵐のように去っていった。一気に活気に満ちて温度が上がったリビングも今は閑散としている。


気づくともう、6時。


夕飯を食べ終わる。


今日こそは、母さんに伝えよう。昼間も考えていたことだ。

叔母が風呂に入ったときに、母さんを呼ぶ。


「大事な話があるんだけど。」


唐突な僕の言葉に、母さんは不思議な様子で何?と聞く。かしこまった僕の体がさらに固まって緊張が高まる。


「今まで言ってなかったけど、僕は絵描きになりたい。」






そのとき、母さんの顔は、一目で分かるほどの困惑を表していた。ああ、ダメだと瞬時に脳が判断する。


「え?私は、父さんみたいに弁護士を目指してるのかと…。セイは勉強も頑張ってたし。それに絵なんて習ったこともないでしょ…!?」


「そんな不安定な職業なんて就いても良いことなんて全くないよ?それにセイがそこまでの才能なんてあるわけが…」


あっ、と母さんが口を抑える。もう遅いけど。

昔から何回絵を見せても興味なさそうに一瞥を投げるだけだったのに。


頭は痛くないのに何かがガンガンと頭の中を揺らしているようで、くらくらする。母さんと目を合わせられない。気づくと少し湿った手をきつく握っていた。


耐えきれなくなって家を出る。

この場所から離れたい一心で、重いドアも勢いよく開けて飛び出した。






寂れた町はもう深く影を落としている。


顔を上げる余裕さえない僕は、いつもの道をただ辿ることしかできなかった。


信号のない横断歩道を渡る。

たまに通る車のライトに目を細める。

道端の木や花に目も向けず、足だけ前へ前へ進める。


何回も通ったこの道が、とても長く感じた。






ようやく着いた。


ここはどんなときでも爽やかな風が頬をかすめる。

堤防にはスイの小さな後ろ姿があって、星が空一面に散りばめられていて、周りに咲く花が揺れる。


そんな僕の願った景色は、そこにはなかった。


空に見える孤独な一番星に、自分勝手に同情して

ひとりその場に座り込む。手にまとわりつく雑草が煩わしい。


初めてここから見る星はただただ静かで、今の僕は侘しさしか感じることができなかった。


そしてこの静寂は、さっきの母さんとのやりとりを嫌でも思い出させた。


僕はどうすればよかったのだろう。


母さんをあっ、と驚かせるような絵を見せれば…

いや、母さんが僕の絵をまともに見てくれたことなんて一度もない。


それとも母さんが諦めるくらい頑固に僕の意見を言い続ければ…

だめだ、それでは。その場限りで母さんが折れるだけかもしれない。


普段はあまり回らない頭がぐるぐるぐるぐると回り続ける。


いつだったか、僕が絵を好きになったきっかけまで思い出すほどの記憶を遡った。






今と同じ、蒸し暑い夏、小学生の頃の話。

そのときも、家族と親戚の家に行ったからだろうか、この町にいた。


普段と違う景色と環境に慣れず、帰りたいと駄々をこねる僕に、父さんは絵の具セットを買ってくれた。


僕の好きな赤色と黒色の模様が専用のバッグに

刺繍されていて、それだけでお気に入りになった。


絵の具で描くと、今までクレヨンや色鉛筆で描いていた絵とは全く雰囲気が変わって大人っぽくなったようだ。


見慣れない外に出て、太陽、木、川、犬、猫。描いていく。そうしていくうちにだんだん上達していくのが自分でも分かった。


いつか自分だけの世界を表現できたらな。


子供ながら仰々しいことを考えたものだ。

でもいつか本当にできたら……。






そんな行き詰まったとき、静かな夜をかき消したのは、あの日と同じ、爽やかなアルト。


「やっと星が見えるね……!」


肩の力が一瞬で抜けるような感覚がした。

普段のまくらで眠るときみたいな安心感が体中に広がる。


スイのほうに向く。

暗くてよく見えないけれど、スイの嬉しそうな、温かい感情が伝わる空気感がした。


孤独が嘆いて思わず目が熱くなる。

嬉しいのに唇がプルプルと震えて、思ったように口角が上がらない。


そんな僕を見て「どうしたん……?」と両膝を折って心配そうに、でも泣きかけた僕の顔を見て、少し遠慮がちにスイは尋ねた。


誰かにこのどうしようもない感情を共有したくて、起こったことを全て話した。






「そうなんや…ほんとに辛かったね…。

 ごめんね…聞くことしかできんで。」

スイが申し訳なさそうに目を伏せた。


「そんな、聞いてもらえただけで、ぜんぜん

 気が楽になったよ。」


それからしばらく何も話さない時間が続いた。


二人で、もう一度空を見る。


寂しさばかりを感じた星空にも、時間が経って数えきれないほどの星が姿を現した。


空白なんてないくらい星が敷き詰められた空に、

僕もスイも、家も地球も押しつぶされそうなほどだ。


白く輝く大きな星が、粉砂糖くらい小さく見える星たちと擦れ合って、煌めく音が聞こえてきそうな景色だった。


今は、この星の輝きが鳴り響くほどの沈黙が心地よかった。







しばらくそうしていると、ふいにスイが口を開いた。


どういう訳か、自分を冷笑するように。


「私ね、まだ夢がないんよ。」



「あの星の群れ、私たちの夢の一つひとつに見えるってずっと思っとった。セイの夢は、高い場所にあるけど大きいあの星みたいに素敵な…。

でも、私にはそれがまだ見つからん。」


スイは僕の方を振り向いて、苦しそうな、申し訳なさそうな表情になる。


風が吹いてスイの肩までの髪が後ろに揺れる。

下がった細い眉ときまりが悪そうに地面を見つめた瞳が、暗闇に慣れた目に焼き付く。


「私の家は自由や…。私がどんな職業に就いても、何をしたいと思っても止めん。

私は自由なのに夢が無い。セイは夢があるのに自由がない。」


でも…!と、パッとスイの目が、ひとつの大輪が開くように輝いた。


「夢はいつか自分で見つけるしかない。私は何年後か、見つかるのかさえ分からん…。でも自由はいつか必ず掴めるよ…!」


僕を勇気づける彼女は今までで一番の笑顔を向けてくれた。さらに目の奥が熱くなる。


僕もスイの笑顔に応えたい。

今は泣き笑いみたいなふにゃふにゃな笑顔でしか応えられないけれど、いつか不自由を打ち断てるときもう一度。






夜もさらに更けた。


いきなり家を飛び出したというのに、もう帰っても大丈夫だ、と。今日ここに来たときの不安は一つ残らず蒸発していた。


「また、明日。」


今日は僕から手を振って家に戻る。


ドアを開けると、いきなり飛び出した僕に母さんはひどく怒っていたけれど、素直に謝って自分の部屋に入った。






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