第39話 篠宮冴梨になってあげる

足元から崩れ落ちるって、そうそうお目にかからない体験。


人生初の感覚を、あたし、高遠冴梨はまさに今、味わっていた。


震える膝は言う事を聞かない。


頭は真っ白で、視界はぼやけている。


なのに、手元のソレだけはやけにはっきりと見えていて、あたしに現実を突きつける。


「う・・・嘘・・・だよね?」


無人の部屋で誰にともなく呟く。


だって絶対そんな事あるはずない・・・ない・・・ない?


いや・・・ある、というか、そうなる要素は、実際には・・・あった。


「でも・・・まさか・・・」


自分に限ってあり得ない、と勝手にタカを括っていたのだ。


だってまだ学生だし、とか。


そんなの、ちっとも関係ないのに。


可能性は、いつだってあった、のに。


考えた事なんて無かった。


自分が、誰かの母親になるなんて。


亮誠と付き合うまで、恋愛経験皆無だったあたし。


だから、なにもかもが初体験なわけで。


世間一般の学生同士の可愛らしい恋愛とはちょっとズレた恋愛をしてきたので、


まさに普通の恋愛真っ最中の絢花みたいな、将来の夢なんて描いた事がなかった。


というか、描く前からあたしの恋愛の結末は決まっていたのだ。


大学を卒業したら結婚する。


それを前提に、うちの両親にも半同棲生活も許可して貰った。


回りは着々と結婚に向けての下準備を進めていて、だけどあたしの気持ちはまだ現実の中を漂っている。


微妙なズレを感じない事も無かったけれど、亮誠と一緒にいる未来を疑った事だけはなかった。


だから、大丈夫だって、そう思っていた。


憧れのウェディングドレスを着て、チャペルの祭壇を前に誓いを交わす。


あたしが思い描けていた未来はせいぜいそこまで。


亮誠との間に、可愛い子供が生まれて、ママって呼ばれるなんて、全然全く想像もしていなかったのだ。


そんなあたしの手にある検査薬は、陽性を示している。


何度も何度も手元を確かめては首を振る。


嫌なわけじゃない、でも、嬉しいよりも、怖い、のほうが大きい。


卒業が決まったとはいえ、まだあたしは学生だ。


もうすぐやって来る卒業後は別々の進路に進むことになる、絢花と桜との残り少ない学生生活を楽しみにもしていた。


まだ憧れでしかないが、自分の大好きな洋菓子の店を出したいな、なんて夢も抱いている。


でも、今お腹の中には、新しい命が宿っているのだ。


好きだとか、愛してるとか言いながら、覚悟が出来ていなかったあたし。


好きな人と両想いになってハッピーエンド。


アフターエピソードは、家族になった主人公カップルが出てきておしまい。


その間に何もないわけないのに。


少女漫画レベルの知識と自覚しか無かった自分が情けなくなる。


呆然と立ち尽くすしかできないあたしの背中で、玄関のドアの開く音がした。


今日に限って亮誠が早く帰って来たらしい。


「さえー?帰ってんだろ、電話出ろよ。晩飯食いに行こうと思って・・・」


リビングに入ってきた亮誠を振り向いたら、彼と目が合った。


涙目のあたしを見て、一瞬驚いたように目を瞠る。


でも、今更取り繕うなんて出来っこない。


「どーし・・・!」


怪訝な顔をでこちらにやってきた亮誠が、あたしの手元を見て顔色を変えた。


普段は超鈍感なくせに、こういう時だけ察しが良い男。


結果を確かめる事もせずに、あたしを抱きしめた。


「なあ、不安になって泣いてんのか?」


「・・・だって・・・か、考えたこと・・・なか・・・った」


答える声が震えてしまう。


愛し合っていれば、いつかはそうなる、でも、それはいつか。


向こう数年のスケジュールには組み込まれていなかった。


亮誠の掌が優しく背中を撫でる。


「俺は、考えてた。ずっと、お前が高校卒業した頃から。急いでたわけじゃないし、お前の気持ちも分かってたから、当分先か、とは思っていたけど。ここで喜んだら・・・ダメか?」


静かな声には、確かにあたしを気遣う気持ちが籠っていた。


亮誠の声で、漸くあたしはこれが、あたしだけの問題じゃない事に気づいた。


お腹の中に命を宿したのはあたし、だけど、この子は亮誠の子でもある。


「ひ・・・一人にしないで、一緒にいてくれる?」


馬鹿みたいな事言った、と思ったのはあとのまつり。


それ位不安だったのだ。


亮誠は目を丸くして、それから呆れた様に言った。


「何言ってんだお前は」


「だ・・だって・・・」


「余計な心配だろが。それなら俺の過保護を心配しとけ。これから一鷹並に口煩くしてやっから」


超が付くほど奥様を溺愛している亮誠の親友を例えに出されて、あたしは小さく笑った。


「それはヤダ。好きにさせてよ」


いつもの調子が戻ってきて、きっぱりと意思表示しておく。


震えていた膝にも力が戻ってきた。


亮誠が抱きしめてくれただけで、あたしはこんなにも落ち着ける。


凍えていた心が、あったまって、解けていく。


あたしの手から検査薬を抜き取って、改めて亮誠が確かめた。


「こないだの・・・かな」


小さな呟きに蘇った恥ずかしい記憶にはフタをする。


付けなくてイイ、と言った自覚があるので更にバツが悪い。


「い、いつのでもいいからっ」


検査薬を取り上げてゴミ箱に放り込む。


あの夜のいつも以上に甘ったるい雰囲気は、思い出すだけで顔が火照る。


「明日、病院な」


「ん・・・」


頬にキスを落として、亮誠がカレンダーに視線を向ける。


「卒業近くで良かった・・・お前あんまり大学行くなよ」


「はあ?何言ってんのよ、学生なんだから行くに決まってるでしょ。授業料払ってるし」


こういう結果にはなったが、学費を出してくれた両親の為にもちゃんとしたい。


あたしをこの家に迎える時に、亮誠が残りの学費は自分がと言い出したのを固辞した父親の事を思い出した。


あたしの返事に亮誠が早速眉根を寄せる。


「それでも、つわり始まったら此処に軟禁な」


「もうすでに十分口煩いから!」


思いっきり亮誠を睨み付けたら、彼の手があたしの前髪を撫でた。


耳たぶに触れた指先が顎を掬う。


真正面から視線がかち合う。


「あーなんか、一鷹の気持ちが今更分かるな・・・そうだ、冴梨。お前さ、やりた事とか、欲しいもんとかさ、何でも言えよ」


真剣な彼の口調に、あたしは小さく息を呑んだ。


ついさっきまで思い巡らせていた事を見透かされたようでどきっとする。


「急になに?そんなの、いっぱいありすぎるから」


慌てたあたしを優しく見つめて、亮誠が微笑む。


「何でもいーよ。どんな難しい事でも、絶対叶えてやるからさ。だから、冴梨・・・俺といる人生を選べよ」


「それって・・・プロポーズ・・?」


一応確認しておく。


そりゃあ、元から結婚前提って大々的に言われてますけど。


亮誠は頷いて、唇に軽くキスした。


「最後は、お前が決める権利持ってんだからさ」


「あたしがヤダって言ったら?」


「そう言わせないよーにすんのが、俺の仕事だろ?」


返事は?と促されて、あたしは彼の耳元で囁く。


「篠宮冴梨になってあげる」


視線を合わせたら、亮誠が一番優しい顔で笑った。

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