第14話  リーフパイとお昼寝

篠宮亮誠という男は、世間一般的には大変好人物だ。


今は、修行中の身なので大手百貨店内の支店長補佐という役目を担っているが、スタッフを始め、パティシエからの信頼も厚く、その若さでありながら、年上の部下達からも慕われていた。


ただし、コレは会社用の顔。


彼の血を分けた実の姉である美穂に言わせれば、この弟は、私生活においては、どーしようもなくいいかげんな男であった。


1人暮らしを始めれば、マンションに複数の女性が鉢合わせなんてことも片手で足りない位あったし、別れ話が拗れて、逆上した彼女から平手打ちをお見舞いされた回数も片手では足りなかった。


軽薄な女好き。


来るものは拒まず、去るものも拒まない。


何でも欲しがるように見えて実は何も欲しくない。


亮誠は、実はとても難しい男なのだ。


だから、彼の軽はずみな行動を見守っていた美穂は、この弟は死ぬまで本気の恋をしないのでは無いかと思っていたのだ。


彼女と出会うまでは。



高遠冴梨という少女は、簡単に亮誠の心を奪ってしまった。



きっかけは何か分からない。


けれど、彼女との出会いが亮誠の価値観を変えてしまったのは紛れも無い事実だ。


週末ごとに会っていた彼女達の姿はいつの間にか消えていた。


あの亮誠が、忙しい大学と会社の合間を縫ってでも、迎えに来るなんて考えられない。


これまでなら、自分優先で、都合の良い時だけ、彼女を呼ぶような生活だったのに。


冴梨に見せる優しい顔は、昔一緒に暮らしていた頃の亮誠そのもので、美穂はそんな表情を久しぶりに見たことに驚いた。


心を奪われるってこういうことね。



冴梨に向かい合う亮誠は、嘘偽り無い、素直で少し不器用な自分のよく知っている弟の顔をしている。


冴梨を亮誠に預ける事に、少なからず不安を覚えていた美穂は、二人が付き合いだしたことに安堵し、同時に嬉しく思った。


駆け落ち同然で今の生活を手に入れた美穂は、自分が弟を犠牲にしたという自覚があった。


父親がずっと後継者にと望んでいたのは、亮誠ではなく、長女の美穂だったからだ。


美穂自身もそのつもりで今の亮誠と同じように大学入学時から会社に入り、経営者としての勉強を続けていた。


新たな店舗展開も視野に入れて、着実に父親と同じレールを歩いていた美穂は、けれど運命の出会いをして、それまでの生活とは180度違う幸せを望むようになった。


これまでガーネットに求めていた繊細で温かみのある柔らかな幸福感は、家庭という形で美穂の前に姿を現し、恵人の妊娠によってそれを現実のものとした。


父親は大いに落胆して、勘当同然で美穂を家から出したが、初孫との対面をきっかけに家族としては美穂を受け入れて、どうにか今の形に落ち着いた。


全ての後始末を任されたのは、後継者となった亮誠だった。


抗いもせず重責を引き受けることを決めた思春期の弟が、その後派手に遊ぶようになった事を知った時には将来を心配したが、こうして落ち着いてくれた今、願う事はただ一つ、弟の幸せのみだ。


勿論、可愛い彼女と上手く行って欲しいと思ってはいるのだが。


助手席から窓の外を眺めながら美穂は呟く。


「恵人置いてきたし、あの馬鹿もいきなりどーこーしようとはしないでしょ」


亮誠の恋愛観と冴梨の恋愛観は、はっきりいって180度違う。


恋愛初心者の冴梨を前に、亮誠が無茶をするとは思ってはいないが、信用できるかと言われれば、完全には信じきれないのが悲しい所だ。


運転中の旦那は苦笑いを零した。


「亮誠君に同情するなぁ」



★★★★★★




義理の兄から同情されていた何てことは知りもしない亮誠は店の2階で、重い溜息を吐いた。


「どーしろっての?」


目の前には穏やかな寝息を立てる冴梨と恵人の姿。


こんな予定じゃなかったのに・・・


とりあえず、起こさないようにテレビの電源を切って、二人の隣に横になる。


どこで間違えたんだ?



「久しぶりに二人で出かけたいのよ」


有無を言わさず留守番を任されたのが、まず最初の災難だった。


土曜の朝。


冴梨を迎えに行ったついでに、どうしても店にバイトの制服を置きに行きたいというので、個人的には、行きたくない気満々だったが仕方なく車を走らせた。


そうしたら、運悪く出かける準備をしていた美穂に掴まったのだ。


恵人の冴梨好きは、両親も、亮誠も認めている。


「冴梨ちゃんとりょうくんとあそぶ!」


そう言って飛びつかれた瞬間の冴梨の笑顔で、結果は見えた。


美穂達を見送った後、恵人を連れて公園に行って、2時間ほど遊ばせた。


くたびれた恵人を背負って戻り、リーフパイでおやつタイム。


ここまでは、それでも順調だった。


おやつを食べた恵人がウトウトし始めて、亮誠は内心ガッツポーズ。


進んで絵本を読んでやり、せっせと恵人を寝かしつけた。


小さな寝息を立て始めた恵人に毛布を掛けようと起き上がった瞬間目に入ったのは恵人の向こうで一緒になって眠っている冴梨の姿だった。


・・・なんで?


やっとチビが寝たと思ったのに。


ガックリと肩を落とすが、よく眠っているので起こす気にもなれない。


そう思ってみれば亮誠の前で冴梨がうたた寝をするのは初めての事だった。


いつも目まぐるしく変わる表情も、今はあどけない寝顔に隠れている。


ほんとによく寝てる・・・


ブランコや滑り台にジャングルで恵人と一緒になって遊んでいたので、相当疲れたのだろう。


押入れから大きめのブランケットを取り出して二人に掛けてやる。


こうやって、誰かの寝顔を眺めることなんて無かった。


今までの経験から、計算ずくの女を落とす方法は知っていたが、ここまで無防備な相手への接し方は知らなかったのだ。


これだけ安心しきった顔で寝られるとさすがに手も足も出せない。


触れることさえ躊躇わせるような穏やかな、柔らかい寝顔。


「・・・」


恵人を起こさないように、冴梨の寝顔に手を伸ばす。


・・・マズイよなぁ・・・


こういう順序立てたお付き合いは、した事がないのだ。


体を重ねる事も、口付けをすることも、ただの行為でしかなかった。


そこから愛しいとか、恋しいとか言葉に出来ない感情が生まれてくることさえ知らなかった。


けれど、今、目の前の存在に、間違いなく心は揺さぶられている。


味覚障害に陥った時、最初に抱いたのは絶望だった。


心因性のストレスの原因も、誰より自分が一番よく分かっていた。


圧し掛かって来るプレッシャーに負けたのだ。


美穂がそれまで舵取りしていた場所に座らされて、同じことをして見せろと言われた時、ああ、この勝負は最初から負け戦だと気づいた。


父親が求めている理想の経営者は、愛娘そのものだったから。


実際彼女が目を掛けた新人パティシエは、今やガーネットの工房の責任者だ。


洋菓子を見る目も、センスも何もかもが秀でていた美穂後釜は、それらを持たない亮誠には重圧以外の何物でもなかった。


出来るなら投げ出したい、けれどそれも許されない。


目の前に差し出されるスイーツを、価値の有無でしか判別できなくなった瞬間に、それらの繊細な味が分からなくなった。


最初から諦めて、乗せられた王冠に向き合おうとしなかった自分への罰だと思った。


だから次に来た感情は諦め。


それすら時間とともに摩耗して、自分の状態をどう隠すかだけに神経を尖らせるようになって、そしてそんな自分を父親に知られて、さらに追い詰められて、藁にも縋る思いで掴んだのが冴梨だった。


最初は美穂が手放しで褒める相手を連れて行けば、父親も納得すると思ったのだ。


使えない後継者のボロがどこかで露見する前に、早々に大口取引先との婚約を纏めようと画策する父親への意趣返しのつもりもあった。


案の定父親は冴梨を気に入って、そんなことで少しだけ溜飲が下がった。


ほとぼりが冷めるまで付き合って貰えればそれで良いと思っていたのだ。


だから、バイトを学校にバラすと脅すような事を言って彼女との距離を詰めた。


万一父親が探りを入れて来た際のカモフラージュのつもりで側に張り付いているうちに、彼女に絆されていた。


美穂が、普通の家庭に幸せを求めた気持ちを嫌になる程理解した。


美穂が憧れる当たり前の感覚の全てを、冴梨は持っていたからだ。


だから同じように彼女に惹かれた。


亮誠の味覚障害を知っても、冴梨は離れて行くことは無かった。


率先して食べたスイーツの味を事細かに伝えては、少しでも亮誠の力になろうといじらしい位に頑張ってくれている彼女を前にすると、愛されている実感が湧いて来る。


一人ではないという事実は、確かに亮誠の心を穏やかにした。


最近では、少しずつ味覚も戻りつつある。


冴梨と知り合ってからこちら、良いことづくめなのだ。


だから、余計今日は二人きりで過ごしたかったのに。


起こしてしまったら彼女は怒るだろうか?


目が覚めているときに触れたなら、どんな顔をするだろう。


笑うだろうか?


それともやっぱり真っ赤になって怒るのだろうか?


どんな表情でも、自分は受け入れて笑うのだろうけど。



一瞬躊躇って、そっと頬に触れる。


温かい部屋のせいで、少し赤い頬。


心地よいぬくもりに離せなくなる。


眠っててくれよ・・・


そんなことを考えながら、零れてきた横髪を耳の方へ流す。


と、冴梨がうっすらと目を開けた。


手は頬に触れたまま、亮誠は悪戯がバレた子供の様にその場で固まってしまった。


冴梨の目が亮誠を捉えて、とろんと柔らかくなる。


穏やかな微笑だった。


亮誠の手に自分の手を添えて呟く。


「・・・恵人くんと間違えた?」


「・・・・・・は?」


何とか一言だけ出た言葉は、再び眠りについた冴梨の耳には届かない。


真っ赤になった亮誠はそのまま固まって動けなくなってしまった。


あとどれ位聖人君子で居なくてはいけないのだろうと、天井を仰ぎながら。

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