第42話 もっと、ぎゅっと

「・・・前方不注意。注意力散漫」


ずけずけと飛んで来る矢のようなお小言に、南は納得できない様子でしきりに眉間の皴を深くしていく。


機材室の開け放たれた窓から吹き込む柔らかい風は、授業を終えた解放感をさらに増幅させてくれる心地よさなのに、この部屋を支配する空気はずっしりと重い。


その原因である巧弥の纏う空気は、ピリピリと張り詰めていて、激しい戦闘シーンの執筆中かと思う程切れ味が鋭い。


こういうどんよりと重苦しい空気を一掃してくれる稀有な存在であるタイガは、今日に限って無口を決め込んでいるので、その場の雰囲気は悪くなる一方だ。


じんじんと痛む膝小僧と、運動部ならではの怪我の処置には慣れているタイガの(予想以上に)丁寧な手当ての様子を交互に見やって、南はとうとう堪えきれずに口を開いた。


「理不尽よ!!!」


この主張は間違っていない。


だって、痛い思いをしたのはほかでもない自分自身なのだから。


転んだのも自分、膝を擦りむいたのも自分、久しぶりに作った傷に思い切り凹んだのも自分。


だから、他の誰に追加で責められる謂れはない。


今回の一連の事件は、何もかも自己責任の範疇だ。


投げつけた言葉は、何にも遮られる事無く真っすぐ巧弥のもとへ届いた。


正しく真正面からその言葉を受け止めた巧弥が、瞬きをひとつして南を見つめ返す。


そんな巧弥と南の間に走った感情のベクトルを間近で見上げながら、タイガがパン、と手を打った。


「よし!消毒完了。大きめの絆創膏貰ってくるから、それまでに仲直りしとけよー」


「喧嘩してない!!!」」


「タイガ、念のため、ガーゼと包帯も貰って来てくれ」


「大げさだから!そんなのいらない!」


「いや、要る」


一向に譲る気配のない巧弥の様子に、南が苛立ちを募らせる。


転んで怪我をしたのは久しぶりだが、膝小僧を擦りむくのなんて小さい頃はしょっちゅうだった。


わざわざ包帯を巻いて大事にする必要がない。


「オーライ。わーかった!ガーゼと包帯な。確かに、歩くなら絆創膏って剥がれやすいし、そっちの方が良いかもしれねぇな」


「今日はもう歩かせない。足首が痛んでくるかもしれないし」


「何言ってるの!?歩くから!痛めてないし!」


「あーはいはい、分かったよ。とりあえず行ってくる。その間にこの空気、どうにかしろや」


タイガは、付き合い切れん、と肩を竦めて、しゅたっと片手を上げると、持ち前のフットワークの軽さを最大限に発揮して逃げるように機材室から抜け出した。


こういう時だけ逃げ足が速い。


不穏な空気の時程、一緒に居て欲しいのに、とことん空気の読めない男だ。


裏表がなくて打算も計算もない根っからの正直者。


ああいう男に焦がれることが出来る佳苗が、物凄く羨ましい、今日に限っては。


果たして二人きりになった機材室で、南は未だ血の滲む膝小僧を改めて見下ろした。


妹たちを構いに放送室に立ち寄った後、機材室に向かう途中で委員会終わりの巧弥とタイガと遭遇した。


そうか、今日はサミットの日か、と廊下を歩いて来るそうそうたるメンバーを見ながら他人事のような感想を漏らして、いやいや、お前も込みだから!とタイガから全力で突っ込まれた。


部活に顔を出す者、職員室に向かう者、そのまま昇降口に向かう者、散り散りになっていく会議出席者の背中が見えなくなってから、隠れ家に向かおうと歩き始めた矢先、教室に置き去りにした課題を思い出した。


学年3位以内を年中無休でキープし続ける頭脳明晰なブレーンがいる間に面倒事はやっつけるに限る。


家に戻ってから手詰まりした場合、バイト帰りの颯太を捕まえなくてはならないので、夜更かし確定になるのだ。


先に行ってて!と逆方向に走り出した南に、巧弥が呆れた声で言った。


”別に逃げないから走らなくていい”


それは勿論その通りだ。


けれど、今日はもう会えないと思っていた校内で会えた事と、当たり前のように揃って機材室に向かう流れになった事が、南の気持ちを走らせた。


じっとしていられない、この気持ちの生まれる場所は、もう知ってる。


迷わず駆けだして、目の前の階段を勢いそのまま上ろうとして、躓いた。


上がった悲鳴を聞きつけて、駆け寄って来た二人に抱えられて、一先ず機材室に連れて行かれた後、ほぼタイガ専用だった救急箱を取り出して、いそいそと傷の手当てを始めたタイガとは反対に、南の傍で身動ぎせずに居座った巧弥の不機嫌の理由は、まあ、理解出来る。


注意を聞かなかったのは自分だし、悪いのも自分だ。


けれど、もう報いは受けた。


だから、そんなに怒らなくたっていいのに。


「あたしが悪いのは自覚してるし、反省もしてますー。だから、これ以上煩く言わないで」


「煩く言ってない。事実を並べただけだろ」


「だから、その事実が煩いって言ってるの」


どうせなら、優しくしてくれればいいのに。


慰めて欲しい、なんていうのは甘えかもしれないけれど、もしうちの子たちが同じ失敗をしたら、迷わず抱きしめて痛みがなくなるように願う。


だって痛いのも辛いのも本人だ。


その上からからし塗りつけるような酷い事は言わない、絶対に。


南の不機嫌顔は凶悪だな、と颯太が絶賛(?)した、思い切り不細工な顔で頬杖を突く。


美人だ美人だと周りはほめそやしてくれるけれど、物心ついた時からこの顔なので、さして感慨はない。


ちょっと笑えば周りの空気が柔らかくなって、顔を顰めればその場が凍る、ただそれだけ。


見た目に引き寄せられて近づいて来る相手への対応なんて、そのどちらかで十分だ。


感情のこもったやり取りなんて、交わすだけ馬鹿を見る。


だから、今日は物凄く久しぶりに全力で拗ねた。


当分の間、湯船に足を付けるとき痛むだろうなぁ、かさぶたが出来るまでも出来てからも痛いし痒いんだろうなぁ、と久しぶりの傷に思いを馳せていると、巧弥が足元にしゃがみ込んだ。


俯いたままの南と視線を合わせる為にそうしたのだと、眼差しが重なって初めて気付いた。


「・・・悲鳴を聞いて駆けつけた時、階段の下で蹲ってる南を見つけて、俺は肝が冷えたよ。階段から落ちてたら、頭を打ってたら、足を捻ってたら・・ありとあらゆる可能性が頭に浮かんで、怖くなった」


「だ・・けど、これ位の怪我で済んだし・・」


「これぐらいの怪我って、本気で言ってるのか」


「・・・タイガなんて、もっとヒドイ擦り傷こさえて笑ってるじゃ」


「あいつと南は違う」


ぴしゃりと言い切られた答えに、迷う前に頷いてしまう。


「傷痕が残ったらどうするんだよ」


「まあ・・それは、ほら、もう残ってる傷痕も沢山あるし・・」


一応年ごろの女子高生なので、身体に瑕が残るような怪我は避けたいと思っているが、すでに肘や膝に消えない傷痕は出来ている。


自他ともに認めるおてんば娘だった頃の可愛らしい名残だ。


「俺は、俺と出会ってからの南には、絶対に傷を付けたくないと思ってる・・・これは、俺の勝手な主義の話だよ」


言葉そのままを歪めず受け取れば、ありがとう、と答えるのが正解なのだろう。


だけれど、その裏に秘められた感情に思いを馳せれば、冷静に受け止めてなんていられない。


「同じ場所に居たって、終始目を離さない、なんてのは到底無理だ」


「・・・うん」


「矢野に構いたがる貴崎の気持ちが、初めて分かったよ・・・」


「えっと・・・それは、気苦労が絶えないって・・・こと・・?」


「分かってるなら、もう少し自重しろ」


「それはもう、反省してますー・・・」


「うん・・・」


小さく頷いた巧弥が、擦り傷の境目にそっと指を這わせた。


恐る恐るといった仕草は、普段の巧弥からは想像もつかない位臆病なそれで。


「痛むか・・・?」


「ん、でも、なんかちょっと懐かしいわ。こういう痛み久しぶりだし」


「次は無くていいよ」


「あはは、そうね。あたしもそうしたい」


「・・・悪かった」


「巧弥、謝るような事した・・?」


「傍から離れた」


静かに告げられた言葉が、優しく胸に響いて、さっきまで苛立ってささくれだっていた心が緩んでほどける。


「なにそれ・・・なんでそこを謝るの・・・そんなの・・・」


泣くつもりなんて無かったのに、不意打ちで向けられた優しさは、芽生えたばかりの恋心で敏感になっている気持ちを激しく揺さぶった。


潤んで来た視界を隠すように窓の外を眺めた。


言いたいけど、怖くて言えない気持ちがある事を、初めて知った。


どうしたって切り出せないから、別の答えを引っ張り出す。


「ひなたが居たらなぁ・・・」


「なんで急に妹が出て来るんだよ」


「・・・痛いときや辛いときは、姉妹でぎゅーって抱きしめ合って慰め合うのが我が家の習わしなのよ」


ちなみに嬉しい時も楽しい時も、勿論そうだ。


二人で何でも分かち合って、助け合って生きて行ってね、というのが両親からの教えだった。


南にとってひなたは、当然守るべきかけがえのない妹であるけれど、それ以上に対等で唯一の存在でもある。


「・・・悪いな、変わってやれない」


「それは当たり前だし!巧弥に代わって貰ったら困るし!」


「何でだよ、その方がずっと気が楽だ」


気取った素振りもなく、ごく自然に紡がれた一言に、心臓が大きく跳ねた。


赤くなった肌から離れて行く指先を追いかけて、見えない勇気をかき集めて捕まえる。


触れあったのは指先ほんの数センチ。


握り込んだ巧弥の指先は節ばっていて、温かい。


僅かに力を込めると、驚いたように見つめ返された。


「・・・あのね・・・ありがと」


”ごめんなさい”よりもこの場に相応しい言葉を選んだら、目を見開いた巧弥が、一拍後に柔らかく笑った。

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