第40話 心に繋がる

〆切を無事に乗り切って、年内の仕事は一区切り。


朝夕が完全逆転の執筆中心生活から、平常運転に切り替えて2週間。


朝日と共に起きて、人工灯ではない、自然光に照らされた世界を新鮮な気持ちで見つめる日々を過ごしているであろう巧弥から、物凄く不機嫌な電話が架かって来たのは、午後3時過ぎの事だった。


人気作家、霧海桃との打ち合わせの時は一番お気に入りのスーツを着る事にしている。


一番カッコイイ自分で向き合いたい相手だからだ。


私はあなたの最高のファンで、且つ、あなたの最高の味方です、と伝えたい。


気分は彼女の傍に控える騎士さながらだ。


素敵な作品が仕上がるように、昼夜を問わずお守りしますと、いった感じだ。


作品の持つ独特の雰囲気を纏った彼女は、綺麗に年を重ねた大人の女性だ。


軽やかな口調と明るい笑顔は、年齢よりもずっと彼女を若く見せる。


けれど、その口から語られる内容は、きちんと人生を重ねて来た大人の女性としての意見で、落ち着きとその根底にある仕事に対するプライドを伺わせる。


かと思えば、スタッフをあっと驚かせるような突飛なアイデアを出してみたり、浮世離れした事を話し始めたりと、自由かつ大胆。


そのすべてが相まって彼女の魅力になっている。


他者を引き付けて離さない人だ。


特別美人ではないけれど、一度会うと忘れられない印象を残す。


南にとっては生涯憧れ続ける女性だ。


巧弥が正式に作家として生活するようになって、初めて貰ったプレゼントのダイヤモンドのピアスは、南が自分で選んだものだった。


一粒ダイヤのシンプルな飽きの来ないデザインに惹かれて、これが欲しいと強請った。


巧弥も、南が一番気に入るものを買ってやりたかったので、快くプレゼントしてくれた。


モノの値段を知らない10代だったから、見せられた値札の桁にぎょっとなったけれど、巧弥は気にすることなくプレゼントしてくれた。


そんな思い出のせいもあって、現在の南にとっての”とっておきの品”になっている。


打ち合わせに入る前と、終えた後、左右のピアスに触れるのが、儀式のようになっていて、霧海の乗ったエレベーターのドアが閉まった後で、右手でそれぞれの耳たぶに触れて、漸く一仕事終えた気持ちになった。


抱えた資料を手に、机に戻るとスマホが光っていた。


液晶に表示された恋人の名前に、思わずカレンダーを見た。


今日は、アンソロジー本でお世話になった大御所作家の出版記念パーティーに出席している筈だった。


南の上司も顔を出しているから間違いない。


パーティーの真っ最中に抜け出してまで電話を架けて来るなんて、よほどの緊急事態だ。


同じように寄稿していた作家仲間の比嘉基が、久しぶりの顔を出すというので、巧弥は再会を楽しみにしていた。


南も打ち合わせが無ければ、上司と同行して潜り込みたい位、著名人が集まる会で、作家たちとの貴重な交流を中断してまで何を伝えたかったのだろう?


逸る気持ちを抑えながら、フロアを出て外付けの非常階段に向かう。


私用電話をするには持って来いのスペースで、ちらほら先客がいることもあるのだが、タイミング良く無人だった。


着信履歴から折り返しながら、ふと思う。


何も電話じゃなくてもメッセージ送ってくれればいいのに・・


コール4回で、ざわめきが聞こえた。


やはり巧弥はパーティー会場にいるようだ。


「もしもし、南?」


第一声の声の低さに思わず背筋が寒くなった。


もしかしなくても物凄く機嫌が悪い。


「いきなり電話とか、どうしたのよ?なんで怒ってるの?」


「急に電話して悪かったな・・待って、外出るから・・・っていうか、用件は一つなんだけど」


そこで女性の声が割り込んできた。


懐かしい、彼女の声だ。


「お、南ちゃん繋がった?っぷぷ・・その眉間の皺どーにかしなよ。


心の狭い男は嫌われるよー?」


「うるせえよ、基。ちょっとコレ持ってて」


「あーはいはい。ちゃんと似合うの買ってやれよ?


っていうか、買わせてくださいって言うんだよ?


首輪つけるみたいな真似すんなよ?」


「いいからお前は黙ってそこのサーモンでも食ってろよ」


「すでにこの通り山盛りですよー。


南ちゃんが美人なのは今に始まった事じゃないだろうに。


最初っからお願いして付けさせておかなかった悸醍が悪いよ。


今更慌てるなんてしょーもない男だな、お前も。


なんでこう男どもは女を所有物にしたがるかねぇ?」


電話の向こうでいきなり始まった言葉の応酬に、口を挟む暇がない。


巧弥の用件を聞くまでは切るわけにもいかず、スマホ片手に固まる南の耳に、巧弥の吐き捨てるような声が聞こえた。


「そんなもん、男にしかわかんねぇよ!」


ケラケラと笑う基の声が遠くなり、一緒にざわめきも遠くなってから数十秒。


巧弥のため息が聞こえた。


「な、なんか忙しそうね、巧弥」


よく分からないけれど、楽しい雰囲気ではなさそうだ。


とりあえず当たり障りない言葉をかけた南に、巧弥が静かに切り出した。


「南。買おう。ちゃんとした指輪」


「・・・はい?」


話がいきなりぶっ飛んだ。


指輪、指輪・・・指輪!?


「え・・っと・・それは・・・その、婚約的な?」


「そう。お前は仕事で付けられないから要らないって言ったし、


俺も指輪に拘るつもりなんかなかった。


ペアリングならプレゼントしたし、結婚指輪を豪華にしてくれればその方が嬉しいっていう南の気持ちも分かってる」


紙の山と戦う職場に、過度なアクセサリーは禁物だ。


引っかかるし、邪魔になる。


すぐに指に嵌めるつもりがないのに、買ってもらうのは勿体ないと南は言った。


それなら、巧弥が気に入ったデザインのものを見つけたら、婚約指輪代わりにプレゼントすると言われて、頷いた。


二人の中ではもうとっくに終わった話だった。


それがなぜ今急にこんなところでぶり返すのか。


さっきの基の言葉がふいに頭を過った。


「今更・・首輪・・?」


たしか、基がそんなことを言っていた。


男はどうして女を縛りたがるのか、とも。


所有物にしたがる男もいるが、所有物になりたがる女もいる。


残念ながら、自分はその類の人間ではないけれど、実際に誰かの持ち物になる事が楽だ、と言った女友達は何人もいた。


南にとっては考えられない価値観だった。


所有物になるという事は、飽きたら捨てられる可能性があると言う事だ。


自分を丸ごと投げ出して、預けます、なんて、恐ろしくてとても言えない。


そこまでの無敵の価値が自分にあるとは到底思えないし。


だから、巧弥からの”対等である南”に対するプロポーズは、南が一番欲しい答えだった。


お互いの人生を尊重しながら、一緒に歩いていきましょう。


目隠しすることも、されることもなく。


自由に支え合って生きましょう。


まだまだ叶えたい夢がある南にとって、切磋琢磨しようとする自分の背中を押してくれるパートナーは、巧弥以外に考えらない。


きっと一生あたしは、彼の背中を追いかけ続ける。


だから、休んだり、立ち止まったりしている暇なんてないのだ。


南にとっての結婚とは、敵わない相手に一番近づく為の、スペシャルチケットそのものだった。


ずっと傍で見つめ続けて、いつか並んで歩いて見せるという、宣戦布告にも近い。


自分とは縁のない言葉だから、基の口から面白い単語が出て来たな、位の軽い気持ちで呟いたら、


「馬鹿、なんでそういうとこだけちゃんと聞いてるんだよ。


飛躍しすぎだ、基の言う事は忘れていい、忘れてくれ」


すぐさま全否定された。


巧弥の声があまりに切羽詰まっていて、思わず分かった、と返事をする。


こんなに取り乱した巧弥を見るのは珍しい。


いつも南の少し上から、こちらを試すように見守っているポジションが、巧弥なのに。


いくら気心知れた作家仲間とは言え、売り言葉に買い言葉みたいなやり取りをするとは思わなかった。


まるで子供の喧嘩のようだ。


しかも、相手は女性で、言い負かされて終わっている。


こんな事、普段は絶対に有り得ない。


牙を剥いた人間は、完膚なきまでに叩きのめすのが彼のプライドだ。


軽口を叩き合える相手が、個性的が集まると言われるこの業界にもいることに、恋人としては、素直に嬉しい。


けれど、今そんなことを彼に言おうものなら物凄い勢いで理論攻めされるだろう。


巧弥が、コホンと咳ばらいをした。


ちょっとクールダウンしたようなので、改めて尋ねてみる。


「えっと、急ぎの用事があったから電話くれたのよね?」


「そうだよ、今のが火急の用件だ。


ちなみに、今日の俺の最重要案件だ。仕事何時に終わる?」


「え・・・?」


今の、ということは、やっぱり指輪買おう、に話が戻るわけだ。


さらに意味が分からない南に言い聞かせるように、巧弥が話し始めた。


「あのな、俺はこういう職業だし、世間一般の社会人とはあまりにもかけ離れてる。


この業界で、南が自分の足で歩いていきたいのも、成長したいのも、結果が欲しいのも分かってるし、応援したいと思ってる。


タイガ程じゃないかもしれないけど、俺は、寛容な方だと思うよ。


一臣みたいに囲い込んで過保護にするつもりはない。


俺は伸びやかな視線で自由に世界を見る南が好きだし、愛している。


その視線を狭めるようなことは死んでもしたくない。


勿論、危なっかしい所もあるけど、基本的には、南の価値判断を全部、信頼している」


「ありがとう。それ、一番嬉しい褒め言葉だわ」


最愛の相手からの最上級の信頼。


これに勝るものなんて、ありはしない。


自分の内側に籠って、内面で生きるキャラクターと向き合う作業を繰り返す彼は、簡単に他人を信用しない。


下手すれば、自分一人で世界が完結してしまうのだ。


実際に、他者との関りを一切拒んで、ひたすら精神世界に籠り続ける作家も多く存在する。


どれが正解なんてわからない。


生み出した作品が、感動を生むのだとすれば、それが最高の評価だ。


けれど、彼は南を自分の人生に引き入れることを選んだ。


高校時代、掴んだ手を、一度も離そうとはしなかった。


彼が何度か陥ったスランプの時も。


世の中との関りをすべて立ち切って、電話も全部解約して、存在そのものを隠しても、南の事だけは切らなかった。


それが、すべてを物語っている。


「褒め言葉じゃない、事実だよ」


だから、この巧弥の言葉は嘘偽りない本心だ。


偽物の世界を紡ぐ魔法使いが、唯一漏らした本音だ。


ああ、どうしてこんな時にあたしは傍にいないのかしら。


巧弥は自分の言葉の持つ魔力を知らないから、こんな告白めいた言葉吐くときでさえ、真っすぐ射貫くように南を見つめる。


片時も逸らさずに、南の表情を記憶する。


自分の導き出した答えで、南がどんな風に笑って、どんな風に答えるのか。


ちょっと王道とはかけ離れているかもしれないが、これが南にとっての大恋愛だ。


いつだったか、巧弥は南と”鍵”のような存在だといった。


彼のいう現実世界(こっち側)が、もう何もかもどうでもよくなって、全部消し去って無くなってしまっても構わない、と残酷な答えにたどり着いた時、唯一彼のここを繋ぎ止める役割を、南が持っているのだと。


”俺が全部を棄てたなら、きっと南は泣くだろう?


俺は自分の身勝手でお前を泣かせる事に罪悪感を覚える。


その気持ちだけが、俺をこっち側に引き留めておくんだよ”


南だけが持っている唯一無二の合鍵。


巧弥が閉ざした扉を開ける事の出来るただ一人の存在。


だから、巧弥は南だけは失くせない、と言った。


「南はこれからも仕事を続ければいいし、もっと活躍すればいい。


お前と組みたい作家は沢山いる。


基からも聞いたよ。


駆け出しの頃こそ、俺とセットで売ろうとしてるとか、並べると絵になるお飾り編集なんて言われてたけど、もう今のお前はそんな紛い事に負けないだろ?


俺が居なくても、ちゃんとやれることも分かってるよ。


俺が必死に書いてきた時間の分だけ、お前も本作りに携わって来たんだ。


俺たちはどこまでも対等で、南は俺に少しも負けてない。


そんな南だから、傍に居てほしいと思ったし、お前もそう思ってくれてると信じてる。


形にする必要なんてないと、思ってたんだ。


目に見えない事にこそ、価値があると俺は今でも思ってる。


俺が作った作品は、どれもこの手では触れられない場所にあるしな。


だから、自由で、誰にも傷つけられない。


それはこれからもきっと、変わらない。


けどな、今日、さっき思い知った。


俺はどこに居ても南を愛してる。


こんな風にお前の事を俺に縛り付けておきたいと思ったのは初めてだ。


指輪だけで安心できるなんて思ってない。


でも、無粋な下心からは、お前の事を守ってやれるだろう?


俺の為に、婚約指輪を、贈らせてほしい」


「何か、言われたのね?またどうでもいいような事?」


編集になりたての頃、先輩社員にくっついて挨拶回りをしていると、色々とセクハラ紛いの事も言われたりした。


自分でも派手な顔を自覚しているので、そんな事には慣れっこだった。


巧弥がベストセラー作家になって、同伴したパーティー会場で、しつこく言い寄られた南を助けた巧弥が、二人が恋人同士であることを漏らして、それからその手の嫌がらせは一気に増えて、そのうち消えた。


「南の耳には死んでも入れたくない妄言、とだけ言っておく、で、俺はこの後お前を迎えに行っていいの?」


「じゃあ、とびきり素敵な指輪を選んで貰おうかしら?


値段に糸目はつけないってことでよろしくて?ダーリン」


必死におどけてみせる。


潤んだ視界の先では非常階段がぼやけている。


こんな大告白を聞けるのなら、妄言なんてどんと来い、だ。


いくらだって戦ってみせる。


「それはもちろん、姫の仰せのままに。


どうせなら、ひと目で男が去っていく本格的なやつにしようか」


巧弥がさらりと答えた。


「ねえ、巧弥」


「ん?」


「最高に、愛してるわ」


もうこれ以外に彼に返せる言葉がない。


巧弥が俺もだよ、と告げる。


「南、お前は俺のものだよ。俺だけの女だよ」


その声は、魔法のように南の心を熱くした。

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