第39話 STANCE

パンプスを脱いだ脚が、いつもよりずっと軽い。


廊下を進む歩調が浮かれきっていることを自覚している。


きっと、これが自分の部屋なら小躍りしているレベルだ。


必死に社会人の仮面を被って、平静を取り繕って対応してきた。


上司からの引継ぎの間もずっとだ。


気を抜けばすぐに潤みそうになる涙腺をきゅっと引き締めて、後輩たちが崇拝の視線を向けてくれる”素敵な先輩”の顔で取り繕って来た。


地下鉄の改札を抜けた瞬間、崩れ落ちそうになったけれど堪えた。


だから、もういいだろう。


そろそろ我慢の限界だ。


一日歩き回って疲れ切ったふくらはぎが悲鳴を上げるはずなのに、今からマンションの外周を走れそうなくらい疲れを感じない。


それ位、体中が歓喜している。


最奥にある部屋の前で足を止めて、深呼吸をひとつ。


控えめなノックの後に聞こえて来たのは穏やかな声。


耳を擽る優しい響きに思えてしまうのは、きっと惚れた弱みだけじゃない。


「なに、えらく機嫌いいね?何を喜んでるの?」


まさかの指摘に一瞬言葉に詰まる。


「あ、足音!?」


さっきの足音でこちらの機嫌を察知してしまった恐るべきこの部屋の主を驚愕の表情で見やる。


さすがの洞察力。


「切羽詰まってる感じじゃなかったから、なんとなく」


一度も振り返ることなくパソコンに向かう姿勢はいつもの通りだ。


振り返って微笑んでほしいなんて望んでいない。


彼には伝えた事はないけれど、真っすぐ机に向かうその後ろ姿が、かなり好きだったりするのだ。


隙だらけに見えて、近づけばすぐ分かる緊張感とか。


彼が描こうとしている世界観に合わせて、微妙に纏う雰囲気が違う所とか。


絶対に同じ土俵に立てない事を承知しているからこそ、羨ましくて堪らない。


どんなに真似したって、感動を生み出す側に回れない事は分かり切っている。


”作り手”にはなれないと知った時から、ゼロから世界を作り出す人の手助けがしたいと思うようになった。


もっと言えば、作り上げる世界の小さな要素のひとつになりたかった。


物語を紡げない脆弱な自分に許された唯一の創作。


作家の導く答えの、ほんのささいな道しるべになれたら、こんなに嬉しい事はない。


決して表には出ない、黒子を選んだ自分の誇りでもある。


愛用のノートパソコンを叩く指は軽快で、彼の調子が良いことを表している。


この部屋に一歩入った時から、もうそこは別空間だ。


天井まで続く大きな本棚と、そこに詰め込まれた雑多な資料。


雑誌や専門書、写真集やマニュアル本、絵本まである。


無尽蔵に積み上げられたそれらの資料の保管場所を、不思議な事に彼はきちんと覚えていて、誰に助けを求めるでもなく、適宜探し出しては、机に広げている。


初めてそれを知った時には、こういう特殊な職業の人間は、普通の人とは頭の作りが違うのだ、と自分を納得させた。


思えば出会った頃から、ちょっと世の中を斜めに切り取って見ている風情が彼にはあった。


独特の視点から物事を見て、判断する。


二人で街を歩いていても、ありきたりな日常の風景から、彼はとんでもなく面白い別世界を紡ぎ出す。


見たもの、触れたもの、感じたもの、そのすべてが創作の糧になる。


彼が受け止めたすべての世界が、新しい別世界へ繋がっているのだと気付いてから、ますます恋心は加速していった。


時々拗ねたように、こちらの視線の先にある世界が掴めないと訴えるそっちのほうが、いつも指先のその先にあると言い返したい。


手を繋いでも、抱き合っても、分かち合えない彼のフィルターが欲しくて欲しくて堪らない事なんて、きっと、一生知る由もないのだ。


日当たり悪い角部屋。


埃っぽい紙の匂いと、空気清浄機の稼働音が鳴りやまない聖域。


彼が生み出す世界の源になるこの場所を、南は、この世界の誰よりも、恐らく彼自身よりも、こよなく愛していた。


だからこそ、今、話を続けてよいタイミングか少しだけ迷う。


勿論すぐに聞いて欲しい話ではあるのだけれど。


背中を向けている彼の頭の中に生きているキャラクターが呼吸を止めるような事になっては困るから。


だから、返答を少し待った。


このまま続けてよいようなら、必ず何かしらのリアクションが返って来る。


そのまま無言に戻ってしまったら、まだ彼の頭は二次元の中だ。


一時的に現実に意識を逸らしただけで、きちんとこちら側の世界を認識してはいない。


そういう時は、すぐに部屋を出る。


今、まさに走っているもうひとつのリアルを、こちらの身勝手な事情で遮るなんて、絶対にしてはいけない事だから。


それは、この仕事に就く前から、何となく体に染みついた感覚だった。


彼のせいで。


待つこと2分。


巧弥の指がキーボードを叩くのをやめた。


それから椅子を回して、ようやく彼が南の顔を振り返った。


ブルーライトカットの眼鏡を外しながら、ごめんと短く謝る。


伸ばされた節ばった指が、南の手を握る。


視線を合わせたら、ここに居るのは加賀谷巧弥だと思えた。


「霧海桃先生の次回作、担当させて貰えることになったの」


ずっと憧れの作家だった彼女が、ドラマ脚本の仕事を終えて、新作を予定していると聞いた時には、ファンの一人として大喜びした。


世の女性の心を掴んで離さない魅力的な男性キャラクターを生み出すキリモモの実力は、業界で知らない者はいない。


ファンタジー作品で作り上げた魔女専のイメージも強いけれど、テレビの効果はやはり大きい。


今や恋愛ドラマのヒットメーカーだ。


女性の心の微妙な変化を丁寧に描きつつ、軽快で後味の良い胸キュンを織り込んだストーリーは、10代の若い女性から主婦層までを巻き込んで大いに受けた。


そんな彼女が、久しぶりにどっぷり恋愛ものが描きたいというのだ。


企画の末端でもいいから関わりたいのが本音だった。


ベテラン編集ががっちりサポートしていくのは必須。


勉強の意味で、1度だけでいいから打ち合わせに同行させてほしい、と上司に願い出たら、あっさりとOKが出た時には泣きそうになった。


出版社に来ている彼女を遠巻きに眺めたことはあったけれど、きちんと対面するのは初めてで、緊張しまくった南を前に、霧海桃は、快活に微笑んで気さくに話しかけてくれた。


この人が愛すべきキャラクターのお母さん、だと思うと、もう足が震えて声も震えた。


次回作は、20代後半の女性を主人公に考えており、同世代の女性の感覚や生活を知りたい、という申し出に、勢いだけで私を使ってください!と手を挙げたのはもう、無意識だった。


何とかして彼女の作品に携わりたい一心だった。


”こんな美人さんと二人三脚できるなんてラッキーねー!よろしく”


と柔らかい右手を差し出してくれた彼女が、女神に見えた。


「・・・ありがとう」


両手を握った巧弥を見下ろしたまま伝えた。


たぶん、これが今日一番言いたかった事だ。


ゆっくり瞬きをした巧弥が、目を細めて薄く笑う。


聡い人だから、こちらが言いたい本質の部分は綺麗に読み取っているに違いない。


もう優しい表情が、全部で物語っている。


堪えて来た涙腺が緩んだ。


滲んだ視界の向こうで、巧弥が指を持ち上げる。


親指できゅっと目じりをなぞられた。


溢れた涙を拭った指がそのまま頬をそろりと撫でる。


乾いた指の腹がゆっくりと顎まで降りて、耳たぶに触れた。


「南の夢が叶ったなら良かった」


間違いなく、目の前のこの人と出会っていなければ、今の南はいない。


きっと一生本屋の新刊コーナーをチェックするだけの、ただの読み手で終わっていた。


ひとつの世界を生み出す苦労も、この上ない喜びも知らないままで。


「俺を選んで良かった理由が増えるなら、それはこっちにとっても好都合だ・・・ちょっと、妬けるけどね」


吐息で笑って、巧弥が南の手を軽く引いた。


歩み寄ると、立ち上がった巧弥に、腰に腕を回して抱きしめられる。


久しぶりに彼の匂いを間近で感じて、一瞬心臓が跳ねた。


見透かしたように、巧弥が耳元で名前を呼ぶ。


「南、俺の担当決まった時、泣いた?」


スタートラインが違い過ぎて、この業界に足を踏み入れた時には、彼はすでに売れっ子作家の地位にいた。


その背中を追いかける事に必死になっていたので、泣くというよりは、やっとここまで来れたという安堵感の方が強かったように思う。


やっと巧弥が見える場所まで来られた、と。


「・・・さあね」


当時の焦りや悔しさが蘇って、拗ねたような口調になったのは仕方ない。


実際サポートできる距離まで来て、改めて作家の偉大さを思い知らされている。


まだ目尻に残る涙を唇で吸い取って、巧弥が頬にキスをした。


ちらりと視線がぶつかって、巧弥が僅かに顔を傾ける。


自分でも可愛げのない返事だった自覚があるので、素直に目を閉じた。


「・・ん・・・っ」


唇が重なって、一度離れて、もう一度、今度は深く重なる。


丁寧に唇をなぞった舌先が、口内に忍び込んで来たらもうお手上げだ。


絡め取る仕草に従順に従うしかない。


柔らかい舌がぞろりと上顎を擽って、泣きそうになる。


宥めるように髪を梳く指は、いつも優しい。


悔しい位、甘やかすのが上手い。


社会人の仮面が綺麗に剥がれ落ちた後で、巧弥が南の両頬を包んで、言い含めるように告げた。


「たまの浮気してもいいけど、ちゃんと俺のことも、追いかけていてよ?」


茶化すような響きに頷いて、肩口に額を押し当てた。

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