第33話 親指姫

第二生徒会室のドアを開けて、一臣は一瞬自分の目を疑った。


ここにあるはずの無いものが見えたのだ。


幻覚かと思って、念の為部屋の入り口をもう一度確認する。


間違いない。


此処は、自分と後輩が愛用している隠れ家的スペースだ。


遠目からでもすぐに分かる、有名女学校の制服を完璧に着こなした華奢な後姿。


隙の無い佇まいからは、育ちの良さが伺える。


さすが、元は華族の令嬢が花嫁修業に通わされた由緒正しき、聖琳女子。


彼女が単独でここに来るのはほぼ不可能だ。


恐らく誰かが手引きしたのだろう。


共犯者の顔を思い浮かべながら、一臣が彼女の名前を呼んだ。


「絢花?」


くるりと振り向いた絢花が、パッと表情を明るくする。


花が綻ぶような柔らかくて、愛らしい笑み。


実際に可愛らしく、問答無用に愛らしい少女だが、それだけではない事を、一臣は知っている。


友英学園と同じく、生徒による学園統治を行っている聖琳女子の生徒会役員だからだ。


歴史ある乙女の箱庭を守る代表メンバーの一人。


その肩書きだけでも、かなりの威力を発揮する。


見る者の心を和ませる微笑みに見惚れていると、つかつかと歩み寄ってきた絢花が、突然一臣に剣呑な視線を向けた。


「先に言っておきますけど・・・ここに来るまでの経緯、過程、理由、協力者、全てノーコメントだから」


「言わなくても分かるよ」


あっさり頷いた一臣をさらに追い詰める様に、絢花が畳みかける。


「本当に?カズ君、本当に分かってるの?」


聖琳の制服で、わざわざ他校に乗り込んでくるなんて、よほどの理由があったに違いない。


けれど、一臣は笑顔を浮かべたままで絢花を抱きしめた。


「分かるよ、俺に会いたかったんでしょ。試験休みと、会議が重なって、淋しくさせてごめん」


「・・・」


大人しく腕に収まった絢花の額にキスをして、機嫌を取るべく甘く囁く。


実際、すれ違い気味のスケジュールに甘んじて、電話しなかったのは一臣なので、言い訳しようもない。


わざわざ絢花がここまで来たのは、これ以上放っておくなら・・覚悟しなさいよ!という直談判をする為だと予想も出来た。


「カズ君が忙しいのは、十分分かってる。あたしも、創立祭の準備でバタバタだったし、それはいいの」


「うん・・・ごめん」


「今日は、怒りに来たわけじゃないのよ」


絢花が一臣を真っ直ぐ見上げて告げた。


「分かってるよ、会いに来てくれてありがとう」


此処に招き入れた人物は茉梨と勝で間違いないし、絢花一人残して行ったのは、気を利かせたからに決まっている。


となると、一先ず優先すべきは、絢花の機嫌を損ねずに、無事に学園から帰らせる事だ。


こんな所を他の誰かに見られたら、聖琳女子始まって以来の大事件になりかねない。


絢花に笑いかけながら、即座に対策を考える一臣の耳に、廊下から声が聞こえてきた。


物凄く耳に馴染んだ声だ。


「ねえ、チョコもうないの?」


「さっきので終わり」


「ええー、お腹空いたんですけど」


「我慢しろって、万一誰か来た時、中に合図しないとマズイだろ」


「そりゃそうだけど・・ラーメン」


「・・とんこつな」


「ネギいっぱいので」


「・・スーパー寄る」


どうやら、見つからないように廊下で見張りをしてくれているらしい。


ひそひそと聞こえてくる話し声に、絢花と一臣が顔を見合わせて微笑む。


良い後輩に恵まれて、良かったよ・・


可愛い後輩の気遣いに感謝しつつ、絢花に視線を送ると、突然、彼女が一臣の腕を振り払った。


「カズ君、あたしが来た目的は・・」


そう言って、歩き出すと、廊下に繋がるドアを勢いよく開けた。


並んでしゃがみ込んでいた、茉梨と勝がぎょっとして立ち上がる。


「ええ!?」


「どーし・・」


訳が分からず戸惑う様子の二人。


絢花は後ろを振り向くことなく、茫然と目の前に立ち尽くす勝に抱き着いた。


「・・!?」


駆け出した一臣が思わず立ち止まる。


茉梨は、手にしていた飴玉の袋を落とした。


勝は、背中腕を回してしがみつく先輩の彼女を見下ろして、固まっている。


微妙な沈黙を破ったのは、絢花だった。


「あたしをほったらかしにするつもりなら、こういう覚悟、しておいてね!・・・って・・言いに来たのよ!」


一臣と付き合うまで、男性恐怖症気味だった絢花。


友達の恋人や教師は平気だが、自分から異性に抱き着くなんて、一臣以外にした事がなかった。


「・・絢花ちゃん?ええ!?ま、勝の事好きなの!?」


パニックになった茉梨が大声で叫ぶ。


「あるわけないだろ!」


即座に勝が否定する。


それでも絢花は離れない。


一臣は盛大に溜息を吐いて、勝ごと絢花の体を室内に引っぱり込んだ。


どういう事だ!?と目を白黒させる茉梨を最後に回収して、カギをかける。


「え、いつから?あれ、カズ君と二股?ってなると、あたしはどーすんだ?ええ?」


「やーの。ちょっと落ち着いて、後で説明するから」


要領オーバーで、思考停止寸前の茉梨の頭をぽんぽん叩いて、一臣が言い聞かせるように言った。


膝を抱えて蹲る茉梨には可哀想だが、まずはこっちをどうにかしないと。


こうして、目の前で、自分以外の男に恋人が抱きついているのは初めてだ。


意味の無い行為だし、相手は後輩、間違いがある筈もない。


わざとだと分かっていても、胸の奥から湧き上がる濁った感情を抑えられない。


「で、いつまでそうしてるつもり?」


「・・・」


ぷいっと視線を逸らして、絢花が黙り込む。


相変わらず勝から離れようとしない恋人に業を煮やした一臣が、無理やり絢花の腕を解いた。


「いいから、とにかく離れて」


「やだっ」


絢花の反応に、思わず一臣が眉を顰めた。


「やだって何・・貴崎がいいの?」


「・・・」


「絢花」


珍しく余裕のない一臣が、苛立ちを露わに絢花の名を呼ぶ。


漸く解放されてほっとした勝が、茉梨の腕を掴んで引っ張り上げた。


無言のままで部屋を出ていく。


これ以上ここに居ても意味は無いと理解したんだろう。


二人きりになった部屋で、一臣は改めて絢花を見下ろした。


力を込めれば折れそうな程細くて華奢な体だ。


でも、絢花の内に秘めた心は、俺よりずっと強い・・・


結局、追いかけるのは、いつも俺なんだ。


次の言葉に迷っている一臣を見つめ返して、絢花がホッと表情を緩ませた。


「やっと、余裕ない所見せてくれたね」


「・・・本心じゃないの知ってても、見たくないよ」


一臣が口元を覆って苦く呟く。


思いのほか精神的ダメージが大きかった。


絢花は、絶対ああいう事はしないと思っていたのに。


「・・・そういう顔が見たかったの。意地悪して、ごめんなさい」


淡く微笑んだ絢花が、つま先立ちになって一臣にキスをした。


「・・・っ・・」


不意打ちのキスに、一臣の反応が僅かに遅れた。


離れていく絢花の唇を視線で追う。


いつも触れている筈の唇が、やけに甘く感じた。


どうして、この唇に触れずに我慢していられたんだろう。


馬鹿みたいな事を考えつつ、絢花の手首を掴んで引き戻す。


絢花を抱き寄せると、申し訳なさそうに俯いた。


「ほんとは、ただ会いたくて来たんだけど・・カズ君の平気そうな顔見たら、悔しくなっちゃって・・・突発的に思いついた作戦なのよ。自分でも、ちゃんと男の人に抱き着けるか不安だったんだけど・・意外と平気・・っきゃ!」


腰に腕を回して抱き上げて、傍にある長机に絢花を座らせる。


近づいて、額を重ねて、頬に触れたら、漸く絢花を取り戻した気がした。


「平気になんてならなくていい・・絢花は、俺の事だけ見てればいいんだよ」


言い切ってから、我ながら情けない事を言ったな、と思うがもう遅い。


絢花が瞳を覗き込んできた。


「・・怒った?」


「と、いうか、呆れたよ・・自分に」


絢花に限って、とこういう事態を全く想定していなかった事。


いつまでも、彼女が、自分以外の男とまともに関わらず生きていける筈がないのに。


そんな当たり前の事すらすっぽり抜け落ちていた。


俺でも、恋愛ボケするんだな・・・


絢花は永遠に自分だけのものだなんて、馬鹿みたいな事を本気で考えていた。


ああも簡単に男に抱き着くなんて、昔の絢花じゃ考えられない。


少なからず、一臣との交際が絢花に影響を与えているのだ。


良くも、悪くも。


「俺以外、誰も知らなければいいのに」


一臣が、胸から零れた本音を口にすれば、絢花が目を丸くした。


「カズ君でも、そんな事、言うのね」


「・・俺はちっとも出来た男じゃないよ・・それを、今知った・・」


「そんな事ない」


きっぱり否定して、絢花が一臣の髪をそっと撫でる。


「あたしも誰かを抱きしめる事が出来るって、カズ君が、教えてくれたのよ」


髪を通り抜ける指先の感触が心地よい。


「教えなきゃ良かった・・」


抱かなければ良かった、とは言えない。


絢花の柔らかさや、熱を、甘い香りを、その心地よさを知ってしまったから。


二度と手放せない。


相手があっての恋愛だからこそ、片方だけ経験や記憶が増える事はあり得ない。


二人で重ねる記憶と、時間が、恋なのだから。


「冗談でもああいうのは禁止、いいね」


「分かってる、二度としないわ」


頷いた絢花の唇にキスをして、一臣が懇願するように囁いた。


「なら、今日は俺がいいって言うまで傍にいて」

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