第32話 金の鍵
ここ数日この部屋には出入りしていなかった。
理由は実に単純明快。
中に居る人物に会いたくないから。
今は。
☆★☆★
南は息を飲んでグッと拳を握った。
まるでこれから決戦に向かうような表情。
引き結んだ唇でドアに向かって一声。
「たくみー」
呼びかけてみる。
けれど、返事は来ない。
何と無くそんな気がしていたので、南は意を決してドアを押し開けた。
ここに彼が1人で居る事は分かっていた。
もう一人の住人であるタイガはサッカー部で遊んでいる。
日に焼けたクリーム色のカーテンが風に揺れている。
射し込む夕暮れの日差しがモルタルの床を照らしていた。
長机に載せられた巧弥愛用のノートパソコン。
その前に置かれた古びたキャスター付きの椅子に悠然と腰をおろして液晶画面を見つめる巧弥の姿を見つける。
自然と眉が跳ねあがった。
「居るんなら返事位してよね」
それだけ言って巧弥の後ろを通り過ぎて定位置である窓際のソファに向かおうとしたら、伸びてきた腕に手首を掴まれた。
視線を合わせるつもりはなかった。
けれど、巧弥は振り返って遠慮なくこちらを覗きこんでくる。
南の瞳を通して、彼女の心の中までも見透かしてしまうような、強い視線。
動けない南は表情を崩さないようにするのが精いっぱいだ。
黙って巧弥の視線を受け止める。
何と無く、先に口を開いたら負けだと言う気がしていた。
巧弥もそれを承知していたようで、掴んでいた手首を離してそのまま指を滑らせて、南の華奢な手を握る。
そっと指先を絡めた。
「決着はついたの?」
小さな問いかけは、南の胸に真っ直ぐ突き刺さった。
どこまで彼が知っているのか、不安になる。
さっき職員室に行ったところから、実はつけて来ていたのではないか?
思わずそんな事も考えてしまう。
適当に誤魔化そうか?
素直に口を開ける筈もなく、南は眉根を寄せる。
巧弥がそんな彼女の表情をつぶさに眺めて口元を緩めた。
目を細めて柔らかく笑う。
「分かりやす過ぎるよ、南は」
「何がよ」
「なんで悩んでるなら相談しないの?」
「悩んでません」
「じゃあなんで、俺の事避けてた?」
「・・避けてなんか・・ないわよ」
「ふーん・・」
おざなりに返事を返して巧弥がキーボードに載せていた反対の手を伸ばした。
「強情」
呟きと共に頬に指が触れる。
乾いたその感触がそっと頬を撫でて首筋に落ちた。
肩に流れる髪を掬いとってから視線を上げる。
南の揺れる視線と真正面からぶつかった。
「何処にしたの?」
「英泉」
進学先の大学の名前を渋々出した南が悔しそうに顔を顰めた。
「自分で、決めたの」
「知ってるよ、こういうトコで周りに左右されるような女じゃないよね、南は」
頷いて巧弥が自分の事のように誇らしげに続ける。
「自分の将来は、自分でちゃんと選べる人だよ」
その言葉にホッとする。
迷った、悩んだ、不安もあった。
だって少しも想像していなかったのだ。
・・・こんな自分は。
漠然としか考えた事の無かった将来の自分が、急に目の前に現れて、しかも、それが他ならぬ彼氏の影響を受けまくった姿だった。
巧弥にあって、南に無いもの。
南が憧れて欲しがって望んでやまないもの。
巧弥だけじゃない、タイガも、一臣も、ちゃんとそれを持っていた。
”なりたい”と思える”未来の確かな自分”を。
小学生の頃は、母親と同じく看護師さんになりたかった。
けれど、低学年の時に見たドキュメンタリー番組で、看護師の仕事の生の現場を目の当たりにして、断念した。
目の前に運ばれてきた血まみれの患者を直視出来る勇気が無かったのだ。
家族の中で、手術の生々しい映像を前に平然としていたのはひなたと母親の2人だけだった。
もともと血が怖い南は今にも泣き出しそうな形相で、それを慰める父親もまた、スプラッタもホラーも駄目な典型的平和主義者だったのだ。
中学生の時には、街角でスカウトされた事をきっかけにモデルも良いかな?何て考えた。
綺麗な服を着て雑誌に載れるのも楽しそう。
そんな軽い考えだった。
それだって”絶対”になりたい夢ではなかった。
南は18歳になるまで”本当になりたいもの”と出会った事が無かったのだ。
それは、ある日突然南の目の前にやって来た。
嵐のように南の心を奪って行った。
多分、巧弥と出会った瞬間から、無意識のうちに探していたのだ。
彼の隣りで胸を張って立っていられる場所を手に入れる方法を。
けれど、それを当人に言うのは非常に抵抗があった。
好きだと告白するよりずっと、ずっと南にとっては重大で深刻な事だったから。
「い・・言っとくけど!」
「うん?」
優しく問われて指先に唇が触れる。
巧弥の指先とは真逆の温かい唇の感触。
爪の先にキスされて、言いかけた言葉を飲みこみそうになる。けれど、負けない。
「きっかけは巧弥だけど、巧弥の為じゃないから。通過点よ通過点、あたしは一緒に物語を作りたいって思われるような、編集者になりたいの。決めたのは、あたしだから。これは、あたしだけの道のなの」
言葉にしたら、胸にちゃんと溶けて解けた。
蟠っていた色んな事が綺麗に流れて行くのを感じる。
大丈夫だ、この未来に、胸を張れる。
いつかのように”今は”なんて言わない。
迷わずに言える。
あたしは、ずっと追いかけて叶えたい夢がある。
「その先には俺もいる?」
「いるわよ」
頷いた南の顔を見て、巧弥が明らかにホッとした表情を見せた。
「でも、すぐにあたしが追い越して行っちゃうけどね」
「それもいいな。追いかけるのは嫌いじゃないし。胡坐かいて待ってるより性に合ってる。いいよ、今度も追いかけるよ」
追い越すのは簡単じゃない。
むしろ、追いつけるかすら謎だ。
巧弥のレールは南のずっと前から続いていた。
巧弥の中には、多分自分の理想形がすでに出来上がっている。
後はそこに向かうだけだ。
けれど、南のこれからは何もかも真っ白で漸く一本の道筋が見えてきた所だ。
それでも、強く思う。
読者としてじゃなく、もっと近くで、この人に認められたい。
「そうやって人参ぶら下げてあたしを走らせるつもりね?」
巧弥に挑まれて南が引くわけがない。
受けて巧弥がニヤッと笑う。
「俺と南にしか、出来ない事だよ」
「やってやるわ」
「・・・南」
「何?」
問い返したら、後ろ頭を引き寄せられた。
一気に距離が詰まる。
唇が触れる寸前に巧弥が囁く。
「そういう強さが好きだよ」
「・・他にはないの好きなとこ」
「言っても良いけど、後で。何日会ってないと思ってんの?」
授業の後も一目散に学校から逃げ出していたので、ここ3日全く顔を合わせていない。
勿論、メールも返信はナシ。
そろそろ限界だと思って策を練っていた矢先に、南の方からやって来てくれて助かった。
これで遠慮なく触れられる。
瞬き一つして微笑んだ南の甘い唇に吸い寄せられるようにキスをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます