第35話 きみはだれのもの

「ただいまー。巧弥ー原稿進んだぁ?」


美容室から帰った南がリビングに向かって声をかけると即座に声が返ってきた。


「おかえり」


執筆中は天岩戸である書斎に籠りきりになる巧弥。


そんな彼がこうしてリビングにいるという事は、よほど行き詰ったか、原稿を上げたかのどちらかだ。


巧弥の場合は、スランプの序章は書斎にこもってひたすらに行き詰った個所を何通りも納得するまで書き続ける。


そして事態がさらに深刻になると、仕事場から遠ざかる傾向にあるのだ。


パソコンも資料も何もかも見たくないという最悪の状況に陥る。


作家稼業についてから、彼が重度のスランプに陥ったのは2回。


そのうち1回は南との喧嘩が原因だった。


巧弥の内面を占める自分の割合の大きさを実感してからは、巧弥の執筆がスムーズに進む様に極力努力している。


今日はどっちかしら?


伺うような視線でリビングを覗けば、ソファに座った巧弥が広げていた新聞から視線を上げた。


文字が読めるという事は原稿が上がったという証拠だ。


神経質な巧弥は、スランプ中は他の情報を頭に入れる事をとくに嫌う。


南はほっと肩の力を抜いて微笑んだ。


「仕事終わったのね」


「30分前に小泉さんに渡したよ」


「お疲れ様」


「ありがとう。置き手紙見たよ」


「ほんと?スープあっためた?」


執筆真っ最中の巧弥には声をかけずに、出かけ際置き手紙を残して行ったのだ。


南が自分の朝食用に作った野菜スープと、卵のココットがあること、ピラフがレンジにセットしていると記しておいた。


「ちゃんとココットもピラフも食べたよ。美味しかった」


「良かった。昨日殆ど何も食べてなかったから・・・」


「いつものことだよ」


「だから心配してるのに」


あっさり肯定した巧弥を顰め面で睨み返して南が手にしていた紙袋を持ち上げた。


「ご飯食べてくれたなら良かったわ。丁度デザートにプリン買ってきたところなの。あ、もしかして、眠い?」


「いや、今日は起きてるよ。せっかく南が家にいるのに。髪、色変えたんだね。巻いて貰ったの?」


「うん。京がお勧めの色にしてくれたの」


「長さはそのままだし・・・うん、艶のある俺の好きな色だ」


楽しそうに南を見つめて巧弥が手招きする。


「ほんと?」


南の長い髪が好きな巧弥は、彼女が髪を切るのを嫌う。


その為に南は高校時代から一度も髪を短くしたことが無い。


「こっち来て、うん・・・美人に似合う色」


緩く巻かれた南のプラチナベージュの髪を指に絡めて巧弥が頷く。


「素敵な誉め言葉をありがとう」


「本音だよ」


蕩けるような南の笑顔にキスをして巧弥が笑う。


「今日の服に合わせて髪型を決めた?」


「え、どうして?」


「何となく、いつもより女っぽいイメージだから」


「そう・・・かな?」


嬉しそうに目を細めた南が、巧弥に向かって笑顔で告げる。


「これ、ね。この間のキヨくんとのデートの時に買って貰ったの。やけ買いだって騒いで色んなお店ウィンドウショッピングしたんだけど・・・そこでね、似合ってるから買ってあげるって」


「・・・」


「会社に着ていくには派手だから、すごく迷ったのよ。でも、彼がどうしてもっていうから、お言葉に甘えちゃったの。誉めてくれて嬉し・・・」


満面の笑みで告げた南の腕を掴んで、華奢な手首に巧弥が唇を寄せた。


「どし・・・たの?」


「南が綺麗になるのは誰より嬉しいよ。美人な奥さんだって業界でももっぱらの噂だしね。俺としては鼻高々だ。南を最初に見つけたのは俺だし・・・でも・・・どうしてかな・・・」


溜息を吐いた巧弥が指を滑らせて南の顎を捕えた。


射抜く様に見据えた視線に捕らわれて南は瞬きすらできない。


「俺が、南を綺麗にしたいんだ」


「・・・なに・・・」


「南がどうすればもっと魅力的になるかなんて、俺だけが知っていればいいことだろ?」


「・・・キヨくん、弟でしょ・・・?」


「だから尚更タチが悪いよ。きちんと女を見る目があるからむかつく」


吐き捨てる様に呟いて巧弥が唇を割って強引に舌を絡めた。


「っん・・・!」


唐突なキスに南の腰が引けるが、即座に巧弥の腕に引き戻される。


背中に滑った掌が肌触りのよいかぎあみニットの中に滑り込んだ。


キャミソールをたくしあげて素肌に触れる。


「っちょ・・・巧弥!?」


慌てた南が抗議の声を上げるが巧弥の手は留まるどころか肌の感触を楽しむ様に上下していく。


身を捩った南の唇を求めて、再び巧弥が体を折った。


追い詰める様にソファに押しとどめた南の体は重力に負けてずるずると滑り落ちていく。


「・・・っは・・・ん」


吐息が絡まり体が熱を持ち始める。


南は巧弥の肩を押し返そうと試みるが、すっかりソファに押し倒された状態では手も足も出ない。


巧弥は項から首筋を指でなぞると、カラーリング仕立ての艶のある髪にもキスを落とした。


耳元で響くちゅっという甘ったるいリップ音に否応なく南の心臓が撥ねる。


巧弥の嫉妬の火が収まるまでは離して貰えない事は容易に想像できた。


獲物を射止めるような強い視線で巧弥が呟く。


「もういっそここで脱げば?服着てない時も、南はとびきり綺麗だよ」


「っ・・・馬鹿言わないで」


「この状態見てわかんない?・・・馬鹿にもなるよ」


「あのね・・・巧弥、ちょっと落ち着い・・・っや!」


何とか巧弥を宥めようとするが、肩口を吸われて思考が止まった。


襟ぐりが大きく開いたニットは簡単に巧弥の唇と指を受け入れてしまう。


鎖骨に落ちた唇が、首筋に触れて産毛が粟立つ。


流されている場合じゃないと頭では理解しているのに、慣れた指と唇の感触が簡単に南の思考を奪う。


極めつけは耳元で繰り返される甘ったるい巧弥の言葉。


「愛してるっていえば、それで全部おしまいなんて、思ってないけど・・・


俺がどれ位南をここに置いておきたいか、どうやったら、正しく伝えられる?」


唇に、頬に雨のように降るキスの最中に囁かれた睦言。


すっかり露わになった肌に対する羞恥心も巧弥の一言ですべて掻き消えてしまう。


「っ・・・ん」


「キスって愛情表現の一種だけど、そんなんじゃ足りないんだけど・・・」


「ま、待って・・・」


「今更、だよ」


必死の抵抗空しく巧弥の手は南のスカートへと忍び込む。


優しく太ももを撫でられて南が泣きそうな声を上げた。


南の反応を楽しそうに見つめて巧弥が徐に口を開く。


「そういえば・・・これは、一度も言ったことがなかったけど・・・」


背けた南の顔を覆う髪を指で避けて、朱に染まった頬に何度目かのキスを落とした。


固く閉じられた南の瞼を指で優しく撫でてやる。


長い睫の陰影が小さく震えた。


「俺は、最初に出会った時から、南は俺の持ち物で、所有物だと思ってるから。だから、ほかの誰かの手を借りて着飾るなんてあり得ない・・・分かった?」


念を押す様に言われて、南が小さく頷く。


その答えに巧弥が漸く笑みを浮かべた。

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