第30話 北風と太陽
編集作業が長引いて、久しぶりに会社で徹夜になった。
さすがにこの年になるとキツイ。
オールで朝までカラオケだの始発まで飲む!だの、やってられた20代前半とは違う。
化粧を落とさずに一晩過ごすのはそれだけでグッと老けるとか。
嫌だと言ってみたところでしかたない。
自分が選んだ仕事。
望んで就いた職業だ。
ムクミ防止の靴下をはいて、乾燥予防のスプレーと、デスクの加湿器をオンにして何とか一晩乗り切った。
ようやく目途がついたのは午前8時。
出勤してくる社員と入れ替わりで出版社を後にする。
朝日が目に眩しい。
さっきトイレで見た自分の顔は忘れたい位くたびれていた。
南は化粧直しもそこそこに携帯を開いて、幼馴染の携帯を鳴らす。
この時間なら起きているはずだ。
案の定3回目のコールで相手が出た。
「南ちゃん?」
「おはよー」
「うーわ。くたびれ声・・・もしかして徹夜?」
「もしかしなくても徹夜よ」
京は携帯越しにお疲れ様。と告げる。
「くたびれモードのお姉ちゃんを癒して」
「はいはい。本日はどのコースで?」
「スペシャルトリートメント!ネイルとマッサージもやって!」
「フルコースってことねー。はーい。了解。何時に来るの?」
「もう今から向かう」
「じゃあ、あたしも出るから」
「ごめんね、京。起きたとこでしょ」
「美味しい朝ご飯希望」
「あはは。了解。あんたの好きなパン屋さんのくるみパン買って行ってあげるわ」
「やった」
今も昔も小食な京が、唯一寝起きでも口にできるモノ。
老舗パン屋のくるみパン。
この時間なら、焼き立てに間に合うかもしれない。
実の姉エリカが店長を務めるヘアサロンに就職した京は、もともと神経質な性格からか、カットの正確性と呑み込みの早さを認められて今では立派なスタイリストになっている。
ゲームのコントローラをカットばさみに持ち替えてからは、団地組や茉梨たちの髪はみんな京が切っていた。
南も、忙しい仕事の合間を縫ってはちょくちょくカットやトリートメントをしに行っている。
最近始めたネイルも好評のようで南の爪は、いつも京が彩っている。
ちなみに、マッサージは南にだけの特別サービスだ。
開店前の時間にやってきて2時間半ほどお店で過ごして帰るのが最近の南のストレス発散になっていた。
☆★☆★
「おはよー」
「いらっしゃい」
CLOSEのプレートは無視してまだ開店前のお店のドアを開ける。
奥のブースの席だけ、カットの準備がしてあった。
さっき買い込んだパンの紙袋を掲げて見せる。
「焼き立てだよー」
「やった!先ご飯しようよ」
京の言葉に頷いて、近くのコーヒーショップで買いこんできたトールサイズのカップをふたつ取り出す。
折りたたみ式の椅子の上に置かれたトレーの上にそれを並べる。
そして、片方を京のほうに押し出した。
「アイスのカフェオレね」
「ノンシュガー?」
「もちろん」
「南ちゃんってほんっと物覚えいいよね」
「えー・・なんで?」
「あたしたちの好きなもの、嫌いなものいつだってちゃーんと分かってる。昔からずっと、だよね」
カフェオレを飲む京の横で、カット席の椅子に腰かけて南は笑う。
「そうかな?」
不意に、団地組の顔が浮かんだ。
★★★★★★
「ただーいーまーぁ」
綺麗になった髪と、復活した肌。
京お手製メイクでつるんと滑らかな品のある南が復活している。
禿げかけていたネイルも綺麗に整えられて肌馴染みの良いイエローゴールドと控えめなストーンで飾られている。
手元が綺麗だと、テンションが上がるものだ。
さすがに家に帰って食事を作る気になれなかったので、奮発してデパ地下で人気のお惣菜を買い込んだ。
巧弥の好きなマリネも忘れずに。
もし、起きていたら早めのお昼に付き合ってもいいし、まだ眠っているなら夕飯に持ち越しでもいい。
その前に、行き詰っていた原稿の進み具合が気になるところだ。
鍵をかけて、1日ぶりの家に入る。
静かな廊下を抜けてリビングへ。
と、カーテンが開けっぱなしなっている事に気づいた。
もしかして、珍しく起きているのだろうか?
足早にリビングのドアを抜けて呼び掛ける。
「たく・・・」
ソファに凭れるようにして、ラグの上で横になって眠っている巧弥の姿を見つけた。
短い溜息を吐いて、南は足音を忍ばせてラグの上に屈みこむ。
設定のメモや資料の束が、乱雑に散らばっていた。
カサカサと着いた掌下で紙が鳴る。
これは・・・まーだ行き詰ってるのかしらん?
夜中に書斎から出てきて、寝不足でカーテン閉めるのも忘れて爆睡。
おそらくこんなパターンだろう。
俯いて目を閉じる巧弥の瞼をそっと撫でる。
相変わらず整った顔。
徹夜でくたびれるのは間違いなく女のほうだ。
体力の違い?
すでに夜型になってしまっているというのもあるけれど、巧弥は2、3日眠らなくとも全く堪えない。
そう思ってみれば、まともに顔を合わせるのは3日ぶりかもしれない。
カンヅメ状態になる前の巧弥と外食したのが今週アタマ。
その後すぐに南の担当作家の締め切りがあったので、すれ違いが始まった。
3日も会って無かったのね・・
ぼんやりと瞼に触れていたらその指を突然掴まれた。
と同時に巧弥が目を開ける。
少しグレーがかった黒い瞳が南を映して柔らかい色を灯す。
「おかえり」
「・・・ただいま」
体を起こした巧弥が、指を離して今度は南の頬を包み込む。
「あんまりくたびれてないね」
「京のトコ寄ってきたから」
「ああ、それでか・・」
短く呟いて、親指で綺麗に縁取られた南の口紅を拭いとる。
ピンクベージュが巧弥の指に移った。
それに視線を送ったら、顎を捕えられる。
「久しぶりに会ったのに余所見しないで」
言うなり反論の余地もなくキスが落ちてきた。
啄ばむようなキスがやがて深くなる。
ラグについていた手を引き寄せられてソファに凭れるような状態になる。
仰のいたままで触れては離れる唇が耳たぶをなぞって髪にもキスを落とす。
このままでは埒があかなくなりそうで怖い。
「・・お腹は?」
指通りの良い髪をくるくると指に巻きとる巧弥に向かって尋ねる。
「空いてない」
「そ・・そう」
南の返事を待っていたように何度目か分からないキスで唇が塞がれてしまう。
「原稿はっ」
「・・・ココで仕事の話するかな?」
眉を顰めた巧弥が、それでも南に触れる手は離さずに一言”終わった”と告げた。
「あ・・そう・・・」
「がっかり?」
「そ・・そんなことない!あるわけないでしょ!」
慌てて首を振ったら、巧弥が満足したように頷いた。
そして笑みを浮かべたままで問いかける。
「だから、触ってもいい?」
”どうぞ”なんて言えるはずもなく。
南は黙って今度は自分からキスを返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます