第43話 全ての終焉でござる

 来た道を走って帰る。歩いて2、30分はかかったから、走ったとしてもすぐは着かないだろう。

 堺に防衛能力は一切ない。きっと織田信長は最初からそのことも見破っていたのだろう。援軍を呼んでいるかのように見せつける作戦も彼の前では無力だったのだ。

「はぁ、はぁ」

 かなり重い鎧を背負いながら走るのは体力的にかなり厳しい。しかも、足元は真っ暗で何も見えない。泥水で足を滑らせたり、転がっている石に躓いたりする人が続出した。

「休むな!急げ!」

 タケは必死に兵を鼓舞し続けた。彼は苦しい表情を一つも見せることなく、先頭をひた走っていた。

 俺は足元に気をつけながら走りながらも、時折顔を上げて、堺の様子を確認していた。時間が経つにつれ、炎は次第に広がっているようだ。刻々とタイムリミットが迫っている。

 俺は自分を責めた。俺は日本を守るなどと言っておきながら、結局堺を窮地に追い込んでいる。戦国時代なのにも関わらず、軍を作らなかったのも俺の判断だ。俺が令和の日本で培ったくだらない平和ボケのせいだ。

「クソ!」

 自分に腹が立った。もちろん織田信長が一番憎いが、その次に自分が憎い。

「ヤス!最後に一つ言いたいことがある」

 タケは少し走るペースを落として、俺の隣に来てくれた。

「お前はお前であれ。今すべきことをするんだ」

 タケはそう言った。俺にはよく意味がわからなかった。それを聞く暇もなく、彼はペースを上げて俺を置いて行った。俺も後ろを必死に追いかけた。

 もうこの時の俺には何も考える余裕はなかった。ただ無心に走り続けることで精一杯だった。


 俺たちはすぐに堺に到着した。その時間、僅か10分足らずだった。近くまで来ただけで熱気を感じた。見て分かる通り、火事は広がりかなり酷い状況だ。

 堺の人は逃げることができたのだろうか。パン屋の方々は?綾さんは?俺は彼らのことが頭から離れない。

「駄目だ!陣の中に人はいない!」

 俺たちは堺の陣内に入った。だがそこにいたはずの会合衆や山下さんの姿はもうなかった。織田軍もそこには見当たらなかった。

「織田軍はすでに街中にいるはずだ!消火しながら、織田軍をぶった斬れ!」

 堺に到着できたタケの兵はわずか100人程度だった。ここまでの道中、織田軍の影武者に殆ど殺されてしまった。タケや秀吉さんはなんとか無事だった。

「井戸はここにある!急げ!」

 街中にはもう迂闊には入れない。火事は堺の街全体に広がってしまっていて、消火は難しい。

 市民の救出も困難を極めた。100人程度の人員での消火し、市民を救出することはほぼ不可能だ。火の手は俺たちの行く手を阻み、もはやなす術がない。

 事態は悪化するばかりだった。兵の中には跪いて茫然としたまま気を失っている者もいた。

「ここからいけそうだな」

 俺は建物の裏に、まだ火が届いていない場所を発見した。街に入ることができるなら、より中の状況を把握できるかもしれない。逃げ遅れた人を逃すこともできる可能性がある。

「おい!全員こっち来い。こっちから中心部に入れるぞ!」

 俺は必死に叫んだ。樽を持った兵士が集まってきて、水を撒いた。それを繰り返して、少しずつ奥の方へと進んでいく。

「中に通じましたぞ!ヤス殿、タケ殿!」

「よし、逃げ遅れた人を運び出せ!」

 俺たちは崩れた建物の隙間から、堺の中心部に入ることができた。四方八方を火が囲んでいる。煙が蔓延して、火の粉が飛び交っているため視界は非常に悪い。そして、耐えられないほど暑い。

「おい、助けておくれい!」

「母上!母上!」

「こっちに人が埋まっておる!手伝ってくれ!」

 俺は驚いた。人の声が聞こえる。それも1人や2人ではない。叫び声や悲鳴があちこちで聞こえるのだ。

「うわっ」

 俺は無数の声に気を取られて、足元の何かにつまずいてしまった。俺はそれを見て言葉を失った。俺がつまずいたのは、人の死体だった。

 俺は思わずその場に倒れ込んだ。今見ている堺は昨日までの堺ではない。活気溢れていた街の姿はどこにもなかった。

「織田軍だ!」

「ぐふぁああ!」

「ぐぁああああ!」

 中心部にはまだ織田軍がいる。味方が目の前で次々にやられていく。

「ヤス殿!こちらでございます!」

 秀吉さんは俺の腕を強引に掴み、引っ張り上げた。そしてまだ火が届いていない建物の中に俺を投げ込んだ。

「こちらは某がどうにか致します。ですのでヤス殿は奥へお進みくだされ」

 俺はうなずいた。必要以上に何回も。秀吉さんは俺に笑って見せた。こんな状況でも焦らず、勇気をくれる人はこの人しかいないだろう。

「実は一つ、言っておかねばならないことがございまして」

 秀吉さんは俺の肩を握った。

「某の妻、ねねは妊娠しておるのでございます」

「え?そうだったんですか」

「もしねねが逃げ遅れていたら、助けてやってほしいのでございます」

「ええ、もちろん」

 秀吉さんは俺にもう一度笑顔を見せた。だが俺は上手く笑えなかった。

「綾殿と再会できたら、お二人はご結婚なさるのでございますよね」

「はい」

「大丈夫です。綾殿はきっと、ご無事です」

 俺の重い空気を察してくれた秀吉さんは、俺を励ましてくれた。

「では、健闘をお祈りいたします」

「はい。秀吉さんも」

 秀吉さんは再度刀を握りしめ、建物を勢いよく出て行った。俺も周囲を警戒しながら外に出て、商店街があった方へ足を進めた。

 大きな建物が倒壊した上を歩いた。焼け焦げた建物は焼けるように熱かった。それを我慢して進むと、商店街が軒を連ねていた道に出た。両サイドの建物は殆ど残っていない。また、地面に倒れ込んで動かない人が沢山いた。

「綾さーん!助丸さーん!」

 俺は大声で彼らの名を呼んだ。灰を吸い込みすぎて声はもうガラガラだ。

「ねねさーん!権兵衛さーん!裕太郎さーん!」

 商店街の突き当たりのT字路まで来た。火の手はここにまで来ている。

「誰かいらっしゃいませんか!」

「ヤス殿!」

 すると、俺の声に返事をするように、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。パン屋があった方向からだ。俺は急いでそっちに向かった。

「ヤス殿!こちらでございます!」

 燃え盛る建物の前で、手を振る人たちが見えた。それはパン屋の皆さんだった。俺は心の底から安心した。

「皆さん!無事でよかったです」

 俺は彼らの顔を見た。なぜか久しぶりな気分だ。数時間前に会っていたとは思えない。

 だが、安堵の気持ちはそう長くは続かなかった。そこにいたのは、パン屋の方々とねねさんだけだった。綾さんの姿が見当たらなかった。

「綾さんは?」

「火事が起こる前に、宿にお帰りになりました。無事かどうかは……」

 助丸さんは肩を落とした。俺はその言葉を飲み込むのに、数秒の時間を要した。

 俺は宿のある方を見た。視界に入った建物は全て炎に包まれている。きっと綾さんがいる宿も例外ではないはずだ。

 頭の中をよぎる最悪の結果を、俺はあえて考えないようにした。綾さんはきっと無事だ。大丈夫。絶対生きている。俺は自分自身に何度もそう言い聞かせた。

「俺、探してきます。皆さんは早く逃げてください」

「いけませぬ、ヤス殿!」

 俺は助丸さんに腕を掴まれた。

「離してください!」

 俺は彼の手を強引に振り払おうとした。だが、彼は全く離してくれそうになかった。彼は黙ったまま、首を横に振った。

 俺は腹が立った。助丸さんは俺に諦めろ、と言いたいのだろう。俺が綾さんを諦められるはずもなかった。彼女はきっと生きている。

「宿の方は危険でございます」

「そんなの知ったこっちゃありません。俺は行きます」

 俺は何もせずにはいられなかった。当然のことだ。

「すいません!離して!」

 俺はそう言いながら、彼の手をねじ伏せた。そうでもしなければ助丸さんは俺を行かせてはくれない。

 俺はそのまま駆け出した。宿があった方へと走った。だが彼は結局、俺を引き止める言葉はかけなかった。


 宿へと向かう道中、逃げまとう人と沢山すれ違った。逃げ場を失った彼らは炎と織田軍に追われているだけだった。俺はその群衆に綾さんがいないかを確認した。けれどなかなか見つからない。道端に倒れている人の中にも、彼女の姿はなかった。

 もう街の外に逃げたのかもしれない。それなら良い。だが、もし逃げ遅れていたら……。そんなことを考えるとゾッとした。胸の中に焦燥感が募った。

「綾さん!いたら返事して!綾さん!」

 俺は必死に叫んだ。建物は焼け落ち、ここがどこだかもよくわからない。俺の直感では、宿がこの辺りにあった気がするのだが。

「綾さん!綾さん!」

 ここの一帯はとても火が強い。左右を巨大な炎に囲まれ、皮膚が溶けていくような灼熱の熱さだった。とても人が来てもいいような場所ではない。

 微かに痕跡が残る大通りを、瓦礫を避けながら進む。履いていた靴はいつの間にか焦げ、剥がれ落ちたので脱ぎ捨てた。おかげで、時々尖ったものを踏んで足から血を出した。

「綾さん!綾さん!いない!?」

 そう言うたびに俺は耳をすました。だが人の声のようなものは何も聞こえてこない。その度不安になったが、ここに居ないのがわかって胸を撫で下ろしたい気持ちも半分あった。

「ん?」

 足元に気を配りながら歩いていると、見慣れた看板が落ちているのを見つけた。3分の1は焦げて真っ黒なのだが、残りの3分の2には見覚えがあった。

「金岡宿……」

 俺たちが普段寝泊まりしている宿だ。助丸さん達によれば、彼女はここに居たはずだ。

 俺は目線を上げ、建物を見た。もちろん、建物は原型を留めてはいなかった。3階まであった建物は半壊し、壁が壊れて内部が完全に剥き出しになっている。

「綾さん!いる?」

 恐る恐る、俺は聞いた。

「いない?」

 聞こえてくるのは、木が燃える音だけだった。

俺は胸を撫で下ろした。ここにもさっき来た道にもいないのならば、もう逃げている可能性が高い。あくまで可能性の話だが、そう考えることで俺は自分を安心させようとした。

「ひとまず帰ろう……」

 俺が帰ろうとしたその時だった。バキッ、っと木が折れる音とともに、建物の一部が崩れ落ちてきて、俺の足元に転がった。

「あっぶね」

 俺は間一髪でそれを避けた。パッと見たところ瓦のようだ。こんなものが足に直撃したら、何本か指の骨が折れていてもおかしくはない。

「どっから落ちてきたんだ、こんなもん」

俺はその建物を見上げた。手で煙を振り払いながら、様子を伺う。

「え!?」

 その時、衝撃の映像が飛び込んできた。それを目にした俺は思わず尻餅をついて後ろに転けてしまった。

 壊れた二階の奥の方に、人の手が見えた。俺は恐ろしくなった。建物の中に人がまだいたとは、思いもしなかった。

 だがよく考えてみれば、ここは宿で、襲撃があったのは真夜中だ。寝ていて逃げ遅れる可能性も否定できない。

 もしかして、綾さん……。いや、そんなはずはない。そんなはずはないんだ。

 だが、俺は自分にそう言い聞かせる限界を迎えた。あの手が誰なのかを確かめない限り、何も不安は払拭できない。

 俺は建物内に恐る恐る侵入した。煙が溜まって、呼吸がしにくい。足場も不安定で、ギシギシと鈍い音を立てている。

 手探りで前に進む。大体の間取りは把握している。俺はなんとか階段までたどり着いた。階段はなんとか原型を留めていた。

 階段の一段目に足をかけた。ゆっくりと体重をかける。かなり軋むが、これは元からだ。耐久性も問題はなさそうだ。

 俺は階段を上がって、2階に来た。床はもうボロボロだ。体重をかけすぎると、すぐに崩壊しそうだ。 

 俺は落ち着いてから、辺りを見回した。

「嘘だろ」

 そこには、瓦礫に埋まった人がいるのだ。片手だけが瓦礫からはみ出し、見えている状況だった。

 華奢な細い腕、長い指、綺麗な肌。その全ての特徴が綾さんと重なった。全てを悟った瞬間、俺はその手を強く握りしめた。

「綾さん!!俺だ、ヤスだ!今助けるから待ってろ!」

 俺の両目からは、信じれないほど大粒の涙が出た。だがそれを拭っている時間も俺には残されていない。

 俺は瓦礫の下を覗き込んだ。瓦礫の下敷きになった彼女は目を閉じたまま、うつ伏せになっている状況だった。下から覗くと、それが彼女であることがはっきりとわかった。

「綾さん、もう大丈夫だからね!」

 彼女の頭の上に重なり合う瓦礫を手で掴んだ。その木材は思った数倍重かった。

「うぉおおお!」

 俺は腹の底から力を出して、その木材を持ち上げた。そして崩れて大きく開いた壁から外に放り投げた。ガシャーン、と大きく音が鳴った。

 俺はそのまま、彼女の髪の毛にかぶった砂埃を手で払った。黒い髪の毛はいつも通り艶々だった。

俺は彼女の口周りに手を当てた。呼吸をしているか、確かめようとしたのだ。

「……」

 二階が崩れて筒抜けになっているせいか、風が強いくて呼吸の有無は判断できそうになかった。それ以外の方法は俺には思いつかなかった。

「綾さん!目を覚まして!」

 彼女は一切動かなかった。返事も当然なかった。俺は彼女の頬を優しく撫でた。

「次はこっち……」

 彼女の背中には、巨大な柱が横たわっていた。俺は必死にそれに食らいついたが、ピクリとも動かなかった。これが彼女の体全体を圧迫している。どうにかしなくてはいけない。

 俺はそこら中に落ちている石の中で、一番大きいものを拾ってきた。

「綾さん、少し動かすよ」

 彼女に一言声をかけた後、俺は柱を思い切り持ち上げた。一瞬浮いた隙に、先ほど並べた大きな石を柱の下に入れた。

 すると、柱は石に寄りかかるようになり、綾さんの体からはわずかに浮いた状況を作り出せた。

「よし!」

 俺は彼女の体を優しく持った。そしてそーっと瓦礫の中から彼女を引っ張った。だが、下半身もまた瓦礫に挟まれ、足が抜けなかった。

 俺はまた立ち上がって、その瓦礫を取り除こうとした。しかしその瓦礫は、重く何層にも複雑に組み合わさっていて、俺にはもうどうしようもなかった。

「くそっ!なんでだよ!」

 俺はその場で立ち尽くしてしまった。彼女を助けることができそうにはなかった。

 俺はもう一度、彼女の手をギュッと握りしめた。彼女の顔を見ると、愛が胸から溢れ出て止まらなかった。

「綾さん、聞こえるよね?俺だよ」

 俺は彼女の頬を優しく撫でた。涙で曇った視界の先にいるのは、眠ったままの綾さんだった。

 大丈夫、絶対生きてる。綾さんが死ぬなんてあり得ない。きっと気を失っているだけだ。後で目を覚まして、またいつも通り笑ってくれるんだろう。もしくはもっと早く来んか!、と俺を罵るのだろう。そんな未来が待っているんだ。絶対、絶対に。

「おい、ヤス!いるのか!?」

 その時、外からタケの声がした。俺は外を見た。血だらけの姿で彼は立っていた。

「いるぞ。2階だ」

「織田軍がこっちに向かってる。まだ時間かかりそうか?」

「手伝ってくれないか?足が引っかかって抜けないんだ」

「ああ、わか……」

 彼がそう返事をした瞬間、織田の兵が彼の目に現れた。一瞬にしてタケは5人の相手に囲まれてしまった。

「ちっ、うぜえな」

 彼はそんな状況に至っても、慌てる様子は一切なかった。鞘から真っ赤に染まった刀を抜いた。片手でそれを握って、腰を落とした。

「来いや、クソ雑魚が」

 彼は俺の目には見えない速度で刀を振り回した。一瞬のうちに、何人かがその場で倒れた。しかし残りの1人は華麗にタケの刀を避けた。

「ほほう、プロじゃねーか」

 彼は一言そう呟くと、そいつに斬りかかった。だがまたサッと避けられると、その男も刀を抜いた。

「タケ、危ない!後ろ!!」

 俺は二階からそう叫んだ。しかし時はもう既に遅かった。タケの背中からは大量の血が吹き出し、道を真っ赤に染めた。タケは膝から地面に崩れ落ち、動かなくなってしまった。

「タケ!おいタケ!!」

 タケはもう力尽き、俺の問いかけには応じなかった。その代わりに、タケを斬った男が俺の方を見た。

「ふへへへ」

 その男は不気味に笑った。そして、宿の建物にゆっくりと足を踏み入れた。

「おい、こっち来んな!」

 俺は右手に刀を握った。そして綾さんを隠すように、彼女の前に俺は膝立ちをした。

 その男は階段から二階に上がってきた。奴はすぐに俺を見つけ、一歩一歩と近づいてきた。

「こっち来んなって言ってんだろーが!」

 俺は刀を突き出した。人に凶器を向けるのは初めてだった。

「後ろに何を隠してる?」

 俺は立ち上がった。両手で刀を構えた。男は俺の言葉を無視して平気でこっちに向かってくる。

「これ以上近づくな。殺すぞ」

 俺は声を張った。だが俺にそんなことはできないと決めつけているのか、全く動じない。

「なんだ、死んだ女を守ってるのか。くだらねえ」

 俺はその発言を許せなかった。俺は男に掴みかかった。

「死んでねーよ。まだ生きてるに決まってんだろ」

「女の顔、真っ白じゃねぇかよ。もう諦めろ、な」

 どこからともなく、殺意が湧いた。人生で初めて人を殺したいと思った。この最低なクズ野郎を俺の目の前から消したかった。信じられないが、そう思っている間は刀が軽くなった気がした。

「てことで、お前にも死んでもらうか」

 余裕綽々と、そいつは刀を抜いた。まだ俺のことを人も殺せない意気地なしだと思っているのだろう。俺の目の前で、無防備な状態だった。

 俺は大きく刀を振りかぶった。

「お、お前……!」

俺は豪快に返り血を浴びた。そして目の前の男はグタッと倒れて、目を開けたまま絶命した。

 俺はその場に倒れるように座り込んだ。この事態を把握するのに数秒かかった。視界がぼやけて、頭がクラクラする。耳鳴りが永遠と鳴り響く。こんな状況が長く続けば、きっと気がおかしくなる。

 俺は隣にいた綾さんの手を握った。なぜかひんやりと冷たかった。

「俺はずっとここにいるから。安心してね……」

 俺はもう動かない彼女の体を優しく抱いた。幻覚で良かったら、もう一度その笑顔を見せてほしい。幻聴で良いから、俺に喋りかけてほしい。少しでもいい。ほんの一瞬でもいい。それが今の俺を助けることになる。

「綾さん、聞こえる?」

「……」

「聞こえたら、返事して」

「……」

「ねえ、綾さん」

「……」

 俺は彼女の頭をそっと撫でた。俺がどんな手を尽くしても、彼女は目を閉じたままだった。

「再会したら結婚するって、そんな話したじゃない」

「……」

「俺生きて帰ってきたんだよ。だから結婚しようよ……」

「……」

 瓦礫の中から、俺が彼女にあげたネックレスが見つかった。結婚指輪の代わりにしようと言っていたものだ。俺はそれの砂埃を落としてから、綾さんの首にかけてあげた。

「うん。やっぱり似合ってるよ。可愛い」

 俺はぎこちなく笑って見せた。それが今できることの全てだった。他に手はなかった。俺は必死になって彼女に語りかけようとするが、言葉はもう何も出てこなかった。

「綾さん……」

 彼女の冷たい手を握ったまま、俺はなんの躊躇もなく泣き始めた。子供みたいに大きな声を出して泣いた。それはつまり、俺が彼女の死を認めたということに他ならなかった。

 薄々感じてはいた。だが絶対に認めたくなかった。俺より先に死ぬなんてあり得ない。しかもこんなところで、俺のせいで起こった戦争に巻き込まれて。

 結局は彼女の死も堺の崩壊も、全て俺のせいだった。この罪は死んでも報われない。数えきれないほどのたくさんの人の命を奪ったのは、まさに俺自身だった。

 俺は生きる意味を失った。これ以上生きても、きっと何も得られない。俺の人生は綾さんで、綾さんが俺の人生そのものなのだ。

 俺もここで死のうと思い立った。そもそも俺に生きる価値などありはしない。大罪を犯した人間が綾さんと一緒に死ねるなんて、運が良かったと思った方がいいだろう。

 

 俺は最後に、彼女の体をギュッと抱きしめた。彼女の冷たい体は、俺の体力を徐々に奪っていった。

「このまま、ずっとこのまま……」

 俺はその場でゆっくりと目を閉じた。最後の涙がツーッと頬を伝って床に落ちて、呆気なくシミになった。

 段々と意識が遠のいていくのがわかった。こんな感覚は生まれて初めてだ。みるみるうちに体が軽くなっていく。そして次の瞬間、うっすらと光が俺の目の前に現れた。俺を迎えにきたであろうその光は、俺の魂を吸い取ってパッと消えた。

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