第41話 愛でござる
喧嘩をしてしまった数日前を思い出した。まだ綾さんに謝れていない。勢いでパン屋を飛び出してからというもの、彼女には会えていなかった。
それが今回、永遠の別れになるかもしれないというのだ。こんなことがあるなら、しっかりと謝って仲直りしておけばよかった。申し訳ない気持ちと後悔の念が湧いた。
俺はそんなことを考えながら、夜中の堺の街を1人で歩いた。商店街を吹き流れる冷たい風が俺の体を冷やした。俺は少し寒くなって、両手を自分の息をはぁーっと吹きかけて温めた。
誰も歩いていない。戦が起こるかもしれないという危機感からか、家に閉じこもっている人が多いのだろうか。
T字路の突き当たりを右に曲がる。するといつもの場所に見慣れたパン屋の看板が立ててあった。風が強いせいか、カタカタと音を立てながら揺れている。
俺は閉まった店の戸を開けた。中から話し声が聞こえてくる。
「ただいまー」
俺は元気を装った声で、そう言う。
「ヤス殿でございますか!?」
奥から驚きの声とともに、助丸さんが姿を現した。
「お久しぶりです、助丸さん」
助丸さんは大きくうなずいた。その姿を見るととても元気な様子であるのがわかった。
「もう織田との決着がついたのでございますか?」
興奮気味に彼はそう聞いた。
「いえ、決着は今からつけにいきます。だからその最後の挨拶をしようと思って帰ってきました」
「さ、最後の挨拶でございますか?」
彼はキョトンとしてしまった。仕方がない。詳しいことは説明しなければわかってくれないだろう。
「皆さんいらっしゃいますか?色々とお話ししたいことがあるんです」
「ええ。まだ皆起きていまする」
店舗の奥が店員の生活スペースになっている。俺は店内から戸を開け、みんなのいる部屋へと入った。
「お帰りなさいませ!ヤス殿」
裕太郎さんと権兵衛さんはまた将棋を指している。前回は負けていた裕太郎さんだったが、今回はかなり接戦を演じているようだった。その2人の熱戦をねねさんが真剣に見守っている。
1人、俺に背中を向けたままの人がいた。部屋の隅でせっせと洗濯物を片付けている。
「綾さん、ただいま」
俺が近づいてそう言っても、彼女は作業をやめなかった。
「この前は本当にごめん。綾さんにも心配かけてたはずなのに、俺が怒っちゃって。悪かった」
簡単に許されるとは思ってはいない。それほど悪いことをしたし、長い間放っておいてしまった。
綾さんは俺の弁明の言葉を聞かず、作業の手を緩めなかった。
話を聞いてもらえないのは俺のせいだ。仕方がなかった。俺は彼女から一旦離れ、全員に声が聞こえる場所に腰を下ろした。
「実は今日、皆さんにお伝えしたいことがあって帰ってきました」
俺は改まった口調で、話し出した。先程まで盛り上がって将棋を指していた2人も、俺の神妙な空気を察して静かになった。
「俺は長い間、日本を平和にすることを夢見てきました。ですが、それをずっと邪魔してきた人物がいました」
「織田信長でございますか?」
助丸さんは聞く。俺はうなずいた。
「織田信長の存在が、この世界に不幸をもたらす一番の源です。争いを好み、人を殺すことに躊躇いがないんです」
俺が話し始めたところで、綾さんは俺に顔を向けることはなかった。少し寂しかった。
「ですから俺は、織田信長を倒すことにしました」
「倒す?それはどういうことでございましょうか」
当然の疑問だ。将棋の駒を握ったまま、裕太郎さんが俺に尋ねた。顔は呆然としたままだ。
「俺と秀吉さんとタケ、そして僅かな兵で織田軍に奇襲を仕掛けます」
そう言うと、ようやく綾さんの手が止まった。他の人たちも顔に衝撃を浮かべたまま固まってしまった。パン屋は一瞬、暗い雰囲気をまとった。だが俺は話を続ける。
「日本を守るという正義を貫くためには、こうせざるを得ないんです」
正義がなんだとか、細かいことはもうあまり気にはならない。ただ今俺がやるべきことなんだと思う。
「勝ち目はあるのでございますか?」
「目標である織田信長を殺せるかどうかは、わかりません。ですが……」
「ですが?」
1000対1万強。織田信長を殺せるかどうかもままならないのだが、生きて帰るなど不可能に等しいだろう。つまり、それは死を意味する。
「もし彼を殺せたとしても、俺たちは大軍に囲まれています。生きて帰ることはできないと思ってください」
俺はその言葉を自分で口にしながら、涙が出そうなのを我慢した。彼らの顔を見ていると、どうしても心にグッとくるものがあった。俺は今を生きているのだと、そう強く感じて胸が熱くなるのだ。
「ヤス殿……」
権兵衛さんはもう既に頬を濡らしていた。俺もつられそうだった。だが俺本人が泣くわけにはいかない。そんなだらしない姿は彼らに見せられない。怖くなんか無い。
「皆さんと過ごした時間、とても有意義で楽しかったです。それは永遠に、俺の宝物です」
ありきたりな別れの挨拶になってしまった。だが心がこもっているのは本当だ。
俺はゆっくりと立ち上がって、できるだけ深く頭を下げた。
「今までありがとうございました!!」
これが最後の挨拶だ。俺が本当に伝えたかったのは感謝だ。
2年前に初めて彼らに出会った時、ヤス殿だなんて呼ばれて最初は恥ずかしかった。だが、彼らは俺たちの境遇を理解してくれて、優しく世話をしてくれた。時に的確なアドバイスをくれたり、腹を抱えるほど笑わせてくれたり、うまい飯を食わせてくれたり。
思い出は俺の脳内に鮮明に刻まれている。例え俺が死んでも天国で思い出せるように、しっかりと刻んである。
俺は頭を上げた。溢れる涙を袖で拭いている彼らの姿が目に入った。俺のことを思って泣いてくれる人がいるということに、俺は改めて恵まれているな、と実感した。心から嬉しかった。
だが、一瞬目を離した隙に、綾さんの姿は見当たらなくなっていた。彼女がいた場所には、洗濯物が散らばって置いてあるだけだった。
俺は部屋の中を見渡した。だがやっぱり居ない。俺は急いで店を飛び出した。
真っ暗な堺の街の中、綾さんは店の看板の前でしゃがみ込んでいた。目頭を押さえて、俯いている。その可憐な姿を見ると、俺は自然と胸が痛んだ。目頭が熱くなる。
俺は彼女に近づいて、彼女のことを後ろから抱きしめた。その瞬間、彼女は耐えきれなくなったのか、大きな声で泣き始めた。そして俺の手を強く握った。
「なんで……。なんでなの……?」
彼女は消えそうな声で俺にそう尋ねた。
「ごめん、綾さん。ごめん。ごめん」
彼女の温かい体温が俺に伝わる。俺はゆっくりと目を閉じると、溢れた涙が頬を走った。
タケに言われて死ぬ覚悟を決めてからというもの、「生」というものを深く意識するようになった。こうして俺はまだ生きている。彼女の温かい体を抱きながら、俺はまだ生きているのだ。
「綾さん、俺行ってくるよ」
「ダメ。絶対ダメ……」
彼女は俺の手を強引に振り払った。そして後ろに一歩後退りして、袖で涙を拭った。
「死ぬと分かってても行くなんて絶対許さないから!」
薄着のまま外に出た彼女は、初冬の冷たい風に吹かれて小さな体を震わせた。
彼女の気持ちは理解できているつもりだ。だが、彼女の気持ちに応えることだけが優しさではない。俺は心の底から彼女を守りたいと思う。そのためには、やるべきことは戦うことだ。そのためなら、俺の命など大した問題ではない。
もしこんなことになっていなかったら、俺はこのまま彼女と平穏な生活を送りたかった。大切な仲間たちに囲まれて、この時代を生き抜きたかった。でも、今となってはその願いももう叶わない。それならば、彼女の命を守ることを俺の置き土産に、ここを去ろう。
俺は寒そうな綾さんの手を引き、店の中へ連れ戻した。そこで俺はもう一度、今度は正面から彼女を抱きしめた。
「ちょっ、ちょっと……」
そう言いながらも、彼女は大粒の涙を俺の肩にこぼした。俺はもう自分の思いを留めることはできなかった。
「好きだよ、綾さん。大好きだ」
俺は彼女にそう言ってふと気がついた。彼女にこんなことを口にするのは初めてだ。そして俺は彼女の返事を聞く前に、なぜかホッとした。この気持ちを伝えられた、安堵なのかもしれない。間に合ってよかった。
「わたしも……好きだよ」
彼女のその言葉を聞いて間もなく、俺は彼女と軽く、一度だけキスをした。目を閉じたまぶたの裏側に、彼女と過ごした日々が浮かんできた。
俺の人生の最後のひと時を彼女と過ごせるのは、本当に幸せだ。1秒でも長く彼女といたい。できればずっと横にいて欲しい。そう願っても叶わないことはわかっていても、俺は願い続ける。きっと死ぬ直前までそうしているだろう。
「突然すぎてまだ現実を受け止めきれないよ」
「ごめんね綾さん。急ですまなかった」
「もうヤスくんとは会えなくなるかもしれないの?」
「うん」
俺たちは互いの手をギュッと握りしめたまま、パン屋の軒先の下に腰を下ろしていた。
つかの間の会話。2人だけの時間。俺たちは限られたこの瞬間を噛みしめるように、ただ寄り添いあっていた。
多くは語る必要がない。次第に彼女も落ち着きを取り戻して、俺の運命を受け入れてくれたようだった。
ふと空を見上げると、分厚い雲の隙間から満月が顔をのぞかせていた。俺たちを包み込む優しい月明かりは綾さんに少しばかりの笑顔をもたらした。俺はその彼女の自然な笑顔が見れて幸せな気分に浸っていた。
だが、時間は残酷なものだ。俺はそろそろ向かわなければならない。
「綾さん、俺もう行かなくちゃ」
「え?もう?」
俺はうなずいて、ゆっくりと腰を上げた。彼女も慌てて立ち上がると、俺を見送りに店先までついてきてくれた。
俺は改めて彼女の目をしっかりと見つめた。
「綾さん、本当にありがとう。そしてこれからも幸せに生きてね」
俺は優しく彼女の頭を撫でた。彼女は下唇を強く噛み締めた。だが堪えきれずに目から涙を流してしまった。
「泣かないでよ。湿っぽくなっちゃうじゃないか」
俺は彼女を少しからかった。だが自分も例外ではなかった。
「あ、そうだ」
俺は自分の首にかかったネックレスを外して、彼女の首元にそれをつけてあげた。微かな月明かりで綺麗に輝いているその石は彼女にとても似合っていた。
「これあげるよ。綾さんに持っていて欲しいんだ」
「でもこれヤスくんの大事なやつでしょ?お婆ちゃんがくれた宝物だって言ってたよね?」
「うん。だからこそ綾さんに持っていてほしいんだ」
俺は彼女の濡れた頬を指でソッと拭った。
「もし俺が死んだら、それを俺の形見にして欲しい」
俺は泣き顔を無理やり笑顔に変えて、彼女に思いを伝える。彼女は僅かに首を縦に振った。様々な感情の葛藤が目に見て取れた。
「もし俺が生きて帰ってこれたら……」
俺は鼻水をすすった。深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「もし俺がここに帰ってこれたら、俺と結婚しよう。そしてそのネックレスが指輪の代わりだ」
結婚だなんて、まだ気が早いと言われるかもしれない。だが俺は彼女のことが好きだ。ただただ大好きだ。結婚することに、それ以上のどんな理由が必要なんだろうか。
死亡フラグだなんて誰にも言わせない。俺はそう心に誓った。何がなんでも生きて帰ってくる。
「ヤ、ヤスくん……」
彼女は大きく声を上げて泣き出した。一度は押さえつけていた思いが爆発したのだろう。彼女は俺の胸に飛びかかってきた。俺は彼女を受け止めて熱い抱擁を交わした。
俺はもう自分も同じように泣いていたことにも気づかず、ただ最後の思い出を作っていた。
「指輪じゃなくてごめん」
「ううん、なんだっていいの」
雑なプロポーズで申し訳ない。そんな感情も彼女を抱きしめている間に忘れてしまった。
「じゃあ、これで本当に最後」
俺は彼女を半ば強引に引き離した。これ以上長くハグをしていれば、俺は死ぬことを躊躇ってしまいそうな気がした。死にたくはないが、きっと死ぬ。このジレンマを飲み込まなくてはならないのだ。
彼女といると、生きたいと思ってしまう。それはどうしても駄目だった。
必然的に涙が頬を濡らした。彼女と会えなくなることが俺にはとても苦痛なことだった。しかしそれでは彼女の為にはならない。俺は自分にそう言い聞かせる。
いずれはやってくるであろう別れの瞬間。まさに今がその時だ。
「バイバイ、綾さん」
俺は彼女に手を振った。
「帰ってきてね、絶対だよ」
「ありがとう」
「バイバイ、ヤスくん」
「バイバイ」
俺は進路方向に体を向けた。そして一歩ずつ、前へと進んでいく。
「ヤスくん!気をつけてねー!」
彼女の言葉が徐々に遠のいていく。俺は振り返ってパン屋をもう一度見返した。
そこにいたのは綾さんだけではなかった。パン屋の方々全員が俺に手を振っているのがわかった。全員が笑っている。誰も悲しそうな表情はしていない。
「皆さん、お元気で!」
俺は大きな声でそう言った。そして大きく手を振り返した。これで最後だ。最後かもしれない。もう二度と会えないかもしれない。
だが問題はない。俺らは分かり合えたのだから。俺は彼女たちを信じている。もし俺がこの世からいなくなっても、彼女たちの中で俺は生き続けるのだろうと。
そう思えばなんとかなりそうだ。この寂しい思いも断ち切れそうだ。大丈夫。きっと大丈夫な筈だ。
俺は手を下ろし、また歩みを進めた。しばらくするうちに、間も無く彼女たちの姿は見えなくなってしまった。
綾さん、どうか幸せに。俺は心の中でそう唱えた。何度も、何度も。ただひたすら彼女のことを思って。
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