第38話 織田軍でござる

 陣の中の環境はそれほど悪くない。市街地と離れているから、商人のうるさい声も聞こえない。それに自然が豊かで空気も澄んでいる。それに見晴らしも良い。西を向けば堺の街が広がっている。東には奥に山々が見え、その手前には広大な平野が広がっている。まるで地図の中の世界に居るようなのだ。

「そろそろでございます」

「そうか」

 本来、陣の中には兵がいるはずだ。そして中で偉い人たちが地図を囲んで作戦会議をしている。そんなイメージだ。

 だがもちろん、こちらに兵は1人もいない。戦わないつもりなので作戦も何もない。ただじーっと織田軍が来るのを待つだけだ。

 では、誰がこの陣にいるのか。もちろん、俺たち会合衆はいる。何かと指示を出すこともあるだろうし、それは当然だ。

 武士は1人もいないが、武士のコスプレをした人は何人かいる。その方々には櫓の上で見張りをしてもらっている。あそこは織田軍に丸見えなので、せめて鎧を着ていないといけないのだ。

 あとは有志で集めた堺の男たち。この方々には旗を持って陣内をウロウロしてもらう。旗がずっと固定されていては偽物だとバレるので、動きをつけるための苦肉の策だ。

 そして、このような設備を整えた陣が合計5つある。本陣が今俺がいる堺軍、他に援軍の武田軍、上杉軍、浅井軍、三好軍用の陣がある。実際はそこに兵がいるテイで話を進める。一応それに合わせて旗やコスプレの鎧をチョイスしている。だがもちろん本物の武士はどこにもいない。

「寒くなってきましたね」

 ボソッと俺が言う。皆の緊張を誤魔化すために、あえて関係のないことを言った。

「集中してくだされ、ヤス殿。もう織田は間近に迫っているのでございます」

 俺は秀吉さんに注意された。まあ、仕方がない。

「山下殿!織田軍が見え申した!」

 その時、櫓の上の人が大声でそう叫んだ。

「そうか」

 山下さんは落ち着いた様子で返事をした。そしてゆっくりと立ち上がった。

「皆のもの、では参るぞ」

 俺は息を飲んだ。とうとうこの時がやってきた。待っていた時とは違った緊張感と逼迫感が俺を襲った。心臓の音が聞こえそうなほど、心拍数が大きく上がったのを感じた。

「よし」

 俺も周りの人と同じように、席を立った。

 堺を守る。何としても守る。俺は何度も頭の中で繰り返した。為すべきことは全てやった。あとは織田を追い払うだけだ。

「ヤス殿、大丈夫でございますか?」

 秀吉さんは俺の背中に手を当てた。

「ええ。大丈夫です」

 俺は秀吉さんにそう答えた。自分にもそう言い聞かせた。

「では、こちらに来てくだされ」

 山下さんは会合衆の全員を引き連れて、陣の東端に移動した。先程は隠れて見えなかった開けた草原が視界に入った。俺の視野を埋め尽くす緑は、ここを今から武士が踏み荒らすとはつゆ知らず、延々と広がっていた。そう思うと、戦がどれだけバカらしいものかと、改めて感じざるを得なかった。

「あちらです!東北東の方角でございます!」

 指差された方角に目を凝らす。すると、そこには驚きの光景が広がっていた。何やらウジャウジャと、地平線の奥から次々と黒い影が増殖しているのだ。ジワジワと大きくなっていくその影は、凄い勢いでこっちに向かってくる。恐らく、それが織田軍であることに間違いはないだろう。その大軍は見る見る内に巨大化していく。こちらにすごい勢いで近づいているのだ。

 俺は度肝を抜いた。想像していた以上の迫力だった。身体中の血の気が引いていく感覚に陥った。呼吸を忘れてしまうほど、動揺した。

「あれが織田軍……」

 会合衆の一員の誰かがそう呟いた。誰もが俺と同じように、衝撃を受けていたようだ。織田の大軍は頭で考えていた以上の威圧感を放っているのだ。

 だが、俺たちの中で唯一、冷静な気持ちを保っている者がいた。

「ここから見た感じでは、およそ1万2000といったところでございましょう。それほど大軍ではございませぬ」

 それは元武士の秀吉さんだった。信長の下で働いていただけあって、軍のことについてはここにいる誰よりも知識が豊富なのだ。

「落ち着いてくだされ、皆のもの。これなら追い返せるかもしれませぬ」

 秀吉さんの言葉を聞いて、俺たちは一瞬胸を撫で下ろした。だがジワジワと近づいてくるその軍が俺の視界に入ると、また心臓が鼓動のペースを上げるのだ。


 織田軍は徐々に迫ってきている。このまま全軍で突っ込んできたら、俺たちはひとたまりもない。1万2000対0という圧倒的なワンサイドゲームが始まることになる。

 もし手前で進軍を止めてくれたら、俺たちの脅しの勝ちだ。流石の織田信長も上杉や武田に喧嘩を売りたくはないだろう。秀吉さんの言う通り、1万2000ならなんとかなるかもしれない。

 今こその運命が決まる時だ。目の前に迫っている彼らの動きを俺たちは注視した。まだ数キロ程度距離は空いている。そろそろこちらの防御体制の全貌が見えてくるだろう。

「止まれ!」

 俺は心の底からそう叫んだ。そして両手を合わせて神様にお願いをする。

 お願いします。どうか、信長が俺たちの罠に引っ掛かりますように。進軍を止めて、そのまま引き返しますように。もし良ければもう二度と堺に来ないように。

 多少無理なお願いだったかもしれない。だが、その願いが神様に届いたのかもしれない。

 すごいスピードで進軍していた織田軍が、俺たちの陣の手前1キロのところで停止したのだ。持ってきた双眼鏡で覗いてみると、織田の兵士がザワザワしているのが確認できた。明らかに動揺している。

「上手くいってるかも……」

 織田軍は俺たちの兵の多さに驚いているのだろう。完全に俺たちの作戦に引っかかっている。

 しめしめ。まさか俺たちが旗を立て、狼煙を焚いているだけで、兵が1人もいないとは思いもしないだろう。作戦勝ちだ。

「秀吉さん!作戦がいい感じです!」

 俺は双眼鏡を秀吉さんに渡した。彼はそれで織田軍の方をじーっと見た。

「うむ。これは素晴らしゅうございますな」

 秀吉さんはそう言って、少し微笑んだ。彼の張り詰めた緊張も少しは解けたらしい。

「待て。まだ喜ぶのは早いぞ」

 山下さんは気が緩んだ俺たちにそう言う。そういった慎重さが彼の良さでもある。

「気を緩めるな。まだ織田が引き返してはおらぬ」

 無論、彼の言うことは正しい。織田軍が引き返さない限り、俺たちは窮地に立たされているのに変わりはない。いやむしろ織田が目の前にいるという点では今まで史上1番の危機だ。

 俺はもう一度双眼鏡を覗いた。敵の慌ただしい動きは先程より少なくなった。どれが織田信長かどうかまではわからない。あの憎たらしい顔は覚えているのだが、双眼鏡を通しても一人ひとりを判別できない。

 織田軍を見張る以外に、俺たちにすべきことはない。あとはひたすら待つだけである。彼らが何日も動かないようなら、俺らもひたすらに待ち続けることになるだろう。ただ、待ち時間が長ければ長いほど、俺たちの作戦がバレる危険性も上昇する。それはここにいる全員がわかっていることだ。

 つまり、早いところ織田軍を追い返さなかったら、俺たちは負ける、そういうことだ。

「大筒撃っちゃいます?手前に」

 織田軍の動きが完全に止まってから早くも1時間がたった。痺れを切らした俺はそう提案した。

「何を申しておる。そのようなことをしたら信長の怒らせるだけでございます」

 即、山下さんに却下された。

「ですが山下殿、某らも動き出さなくては、織田方に威圧を与えられませぬ」

 秀吉さんは立ち上がって意見した。彼も俺と同じく早めに勝負を決めたい気持ちなのだろう。

「挑発的な行為はするべきではありませぬ。何か別の手はござらんのか?」

 織田を怒らせることなく、かつ織田に圧力を加えるようなこと。そんな調子の良すぎた策はあまりないだろう。

 だがやれることは全てやる。それが今一番大切だ。俺たちはとりあえず大筒を織田軍の方を向くように移動させた。移動させるだけでも十分効果はあるのではないか。

 だが、一向に織田軍に動きが見られない。そのことが俺たちの頭を捻らせた。


 「もう日も暮れて参るぞ」

 秀吉さんの言う通り、太陽は既に沈みかけていた。戦局が固動かぬまま、初日は終わってしまうのだろうか。カァーカァーと、カラスがうるさく騒ぎ立てる。

「夜になったら、もっと気をつけてください。奇襲を仕掛けてくるかも……」

 と、そこまで俺は途中まで言いかけてやめた。奇襲が来るのがわかってようがいまいが、俺らには対抗する手立てがなかったことを忘れていた。今更ながら、なんて綱渡りな作戦なんだと、ヒヤヒヤする。今生きていられるのも奇跡だ。

 だが、その時、俺たちに衝撃が走る。

「ヤス殿!織田軍が動き始めましたぞ!」

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