第37話 喧嘩でござる

「ヤス殿。おはようございます」

 秀吉さんに体を強引に揺らされた俺は、ゆっくりと目を覚ました。気づかぬ内に寝てしまっていたようだ。俺は慌てて起き上がった。

「すいません、早く作業を再開します」

 俺と秀吉さんはこの3日、パン屋に一切帰らずここで寝泊りしながら工事の手伝いをしていた。堺の人の協力により、予想を遥かに超えたスピードで作業は進んだ。

「ヤス殿はそろそろパン屋に帰られた方がいいと存じます。綾殿もきっと心配なさっておられます」

「そんな訳にはいきません。俺だけ帰るなんて駄目です」

 俺は体に付着した土をはらって、置いてあったスコップを手に取った。

「もう殆ど工事は終わったそうでございます」

「そうなんですか?俺そんなに寝てました?」

「はい。かなりお疲れなんでございましょう」

 俺は眠気を取るために大きく伸びをした。肩や首の周りの関節がゴキっと不気味な音を立てた。確かに気づかぬ内に疲労が溜まっているようだ。

 俺は100メートル先に小さな丘があるのを見つけた。あそこに行けば、工事の進捗状況が分かるかもしれない。そう思い立った俺は小走りでその丘を登った。

「うっわぁ、すげえ」

 俺は思わず息を呑んだ。自然豊かな緑の草原の中に、巨大な陣が貼ってある。奥には大きな櫓が何個も見える。そして数え切れない量の旗が無造作に並べられている。

 そして、さらに東の方角に目を向けると、堀が掘られてそこに水が張られていた。堀は俺が堺に来る前から工事をしていたらしく、かなり大掛かりなものが完成した。

 これだけあれば、織田信長を騙せるかもしれない。改めて前向きになれた。

「なかなかいい出来栄えでございますなぁ」

 いつの間にか秀吉さんが隣にいたことに俺はびっくりした。

「思った以上にいい感じですね。しかもなんとか間に合いましたね」

「ええ。ヤス殿のおかげでございます」

 そう言われると別に悪い気はしなかった。俺は心なしか少し顔の表情が緩んだ気がした。

「さあ、久しぶりにお帰りになりましょう。織田が来るまでにお休みになった方が良いと存じまする」

 彼は俺の背中をグイグイ押した。俺たちはもう一度その景色を一望してから、久々に帰路に着いた。


 体の芯にはまだ睡魔が陣取っている。時々頭がふらっとする。帰りたいという気持ちはあっても足が思うように動かない。3日間まともに寝なかった代償は大きい。

 そんな俺に比べて秀吉さんはものすごくしっかりしていた。彼もほとんど寝ていないはずなのに、この差は一体何なのだろう。


 そんなことを考えながら、ただ帰る。疲れ切っている俺たちは喋る気力すら持ち合わせていないのだ。俺は特に。

 いつもよりも5分以上かかって、やっとパン屋が見えてきた。数日間帰っていなかっただけで、なんだか胸が熱くなる気分だ。修学旅行から帰ってきた時のようだ。

 だがそんな思いは、眠気と切羽詰まった現実が吹き飛ばしてしまった。素直に帰宅の喜びを味わえないことに少し腹が立った。

「ただいまー」

 俺は小さな声でそう言って、パン屋に入った。秀吉さんも後に続く。店内には数名のお客さんと会計の裕太郎さんもいた。

「お帰りなさいませ」

 彼は控えめに挨拶をした。俺と秀吉さんが疲れているのに気付いて、気を遣っているのかもしれない。俺たちは会釈をして奥の部屋に入った。そこでは綾さんが洗濯物を畳んでいるところだった。

「ヤスくん!?帰ってきたの?」

「うん」

 久々に俺の顔を見た彼女は、その顔に笑みを浮かべた。

「大丈夫?ご飯しっかり食べてる?」

 彼女は畳み掛けるように俺にそう聞いた。

「まあまあかな」

 俺は溜息混じりにそう言う。荷物を床に置いて、腰を下ろした。

「今からご飯用意するね。ちょっと待ってて」

「今はいいよ。とりあえず今は寝たいんだ」

「食べないと頭動かなくなるから、食べなきゃ駄目だよ」

 彼女は強引に俺を椅子に誘導する。彼女はこう言うお節介なところがある。

「まず寝る。それがまず先」

 俺は口調を強めてそう言った。眠いんだから、さっさと寝かせて欲しい。しかもお腹も別に減っていない。

「5分で食べれるんだから、先に食べたらいいじゃない」

 彼女も俺に対してハキハキと言った。内心、少し腹が立った。

「はぁ」

 イラっときてしまった俺は、彼女にも聞こえるように、大きく溜息をついてしまった。ハッ、と我に帰った時にはもう遅かった。彼女は俺を鋭い眼差しで見つめていた。

「え?なにそれ」

 彼女は真顔でそう言った。それを見た俺は、自分の過ちに瞬時に気がついた。

「ごめん、ちょっと疲れてて……」

 俺は正直に謝った。織田に追い詰められてはいるが、そのイライラを他の人にぶつけるべきではない。

「勝手にムカムカしないで。みんな疲れてるんだから」

「勝手に?」

 綾さんの言葉に俺は嫌味ったらしさを感じた。勝手にムカムカしている、なんて言い草はないだろう。冷静になろうと踏ん張っていた堤防が、一気に崩れ落ちた。

「俺は色々忙しいんだ。綾さんだってわかってるだろ?」

「こっちだってヤスくんのことを心配して言ってあげてるの」

「俺は寝たいってさっきから言ってるじゃないか!さっきから余計なお世話なんだ!」

 俺は声を荒げた。カッとなった俺は綾さんにそう言った。こみ上げてきたイライラを全て口に出してしまった。

「もういい。ほっといてくれ」

 俺は黙ってしまった綾さんにそう言い放つと、荷物を担いで二階に上がった。手前の襖を開けて部屋に入る。土塗れの荷物を枕代わりにして、俺は畳の上に横になった。

 俺は一生懸命まぶたを閉じたが、もちろん寝れるはずがなかった。綾さんの顔が頭に浮かんだまま、消えなかった。俺はその時になってやっと気がついた。自分の犯した過ちを。


 降り頻る後悔の雪がだんだん積もっていく。だが重くなった頭は、彼女に謝りに行くという選択肢を頑なに隠し続けた。いつの間にか、そのタイミングを掴み損ねてしまっていたのだ。俺は畳の上でもがき続けることしかできなかった。

 もう織田信長がやって来るまでそう時間はない。だから早く寝て休憩を入れなきゃと、そう自分に言い聞かせるが全く効果はない。

 次第に自分に対する怒りが沸々と湧き上がってきた。行き場のない怒りはただ自分を傷つけ回る。そしてそれが新たなイライラを生む。

「もう駄目だ……」

 俺は睡眠をとることを諦めた。このまま寝転がっていてもラチが開かない。ただマイナスな感情が膨らんでいくだけだ。冷静さを保つことなどできやしない。

 綾さんには改めて謝らなくちゃいけない。でも今はその時じゃない。こんな切羽詰まった状況では、俺の疲れやイライラのせいで彼女をまた傷つけるだけだ。この状況が落ち着いたら改めてそう説明しよう。


 今集中すべきことは織田のことだ。2、3日は北庄経堂で暮らそう。俺はそう決めた。

 早速、タンスを開けた。中に入っている服をいくつか取り出す。それを袋に突っ込んだ。そして机の上に目を向けた。書きかけのままパサパサに乾いた筆と硯が置きっぱなしになっている。

 俺はそんなものは気にせず、薄い引き出しを開けた。中にはあの大切なネックレスが入っている。キラキラ紫色に輝くその石は、いつ見ても美しい。そしてその美しさは俺に様々なことを思い出させた。


 小学生の頃、おばあちゃんが作ってくれた。それからは大切な日にこれを身につけていた。ネックレスなど普段は恥ずかしくてつけないキャラだったが、それだけはよくつけていた。

 この時代にタイムスリップした日も偶然これを身につけていた。それからは大事にしながら一緒にこの時代を歩んできた。綾さんの持っていたブレスレットと同じ石が付いているというのも、なにかの縁なのかもしれない。

 

 俺はそのネックレスを手に取った。それを首にかけた。久しぶりだ、これを身につけるのは。織田との争いにはこれをつけて挑むことにした。不思議と力がみなぎる感覚があった。また、寂しい時にこれを見たら、仲間の顔が浮かぶ気がする。


 俺は荷物を肩に担いで、階段を降りた。誰もいなかったので、俺は何も言わずにそのまま店を出た。そしてそのまま北庄経堂に足を向けた。

「ヤス殿、どうなさいましたか」

 20分後に到着した。そして北庄経堂の廊下で山下さんとすれ違った。

「しばらくはここに寝泊まりしようかと思って」

「ほほう。それは有り難く存じまする。ささ、空いている部屋にご案内いたします」

 俺は案内された部屋に荷物を置いた。

「ヤス殿、あと数刻もすれば織田は堺に到着します。現場では最終準備を進めておりまする」

「はい、わかりました」

 俺は一段と気を引き締めた。

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