第32話 正念場でござる
織田信長と民衆の圧力に板挟み状態であった会合衆は、塩屋さんの見事な政治手腕によってギリギリ耐えていた。織田信長の恨みを買うことなく、民衆の意見を完全に無視はしない。その究極のバランスを保てていたのは塩屋さんのおかげだった。堺がある程度の自由に恵まれていたのは彼の政治手腕の良さによるものだった。
だが俺がそれに気付けたのは、彼の死後だった。俺は反省してもしきれない思いだった。塩屋さんの本当の考えに気づけていれば、信長とも上手く付き合えたかもしれない。戦を起こさぬまま平和的な解決方法に持っていくこともできたかもしれない。
過去を振り返っても仕方がないから前を向け、と人は言うだろう。だがそんな都合よく過去のことを忘れられるわけがない。反省も後悔もするし、今の自分に呆れることも多々ある。
きっと俺は今、最悪の道筋を通っている。今のところ何も守れていない。堺の平和も、大事な人の命も。
そうは言っても、泣いている暇など一切ないのだ。塩屋さんが亡き今、織田信長はさらに会合衆への介入を進めるだろう。そして堺は名実ともに織田信長のものになってしまう。そんな日には平和は二度とやってこない。
「ヤス殿、お客様でございます」
二階にいた俺を助丸さんが呼びにきた。いずれ来るだろうなと、あらかた予想はしていた。一階に降りてみると、やはりそれが正しいことに気づいた。 会合衆の面々が俺を訪ねてきたのだ。わかっていたことだが少し腹が立った。どうせ自分たちが間違っていました、とか言って謝りにきたのだろう。
「安田健太です。どうも」
俺は彼らに軽く会釈をした。彼らも小さく頭を下げた。何も言わなかった。
「あなた方会合衆が俺に会いに来るなんて、今更何の用ですか?」
「……」
会合衆のやつらは、全員下を向いて俺の皮肉混じりの質問に答えようとしなかった。
「織田に見つかったらあなた方もやばいですよね?」
「……」
こんなにも一瞬で、頭に血が上ることが過去にあっただろうか。
「もういいです。お引き取りください」
イラッときた俺はすぐに席を立って、2階に戻ろうとした。
「お待ち下さい!ヤス殿」
俺が立ち上がった瞬間、彼らは焦って俺にそう言った。そのうちの1人は俺の腕を強引に掴んでいる。俺は渋々、席に座り直した。そして腕を掴んでいるやつを振り払った。
「申し訳なかった。会合衆は間違ったことをした」
真ん中に座ったリーダーのような男が、俺に深々と頭を下げた。周りの者も続いて頭を下げた。
「ヤス殿、申し訳ない。この通りだ」
どうやらその謝罪に嘘はないようだった。彼らにとって不正や織田との関係を認めることは相当な覚悟が必要だったはずだ。俺のところに来て謝るということは、織田と縁を切る覚悟ができた証拠だ。
これを塩屋さんが亡くなる前にして欲しかった。しかし、塩屋さんの死が会合衆を元の道に戻させた、そんな解釈もできる。
「皆さん、頭を上げてください」
部屋の中には異様な雰囲気が漂っている。俺の言葉通り、彼らはゆっくりと頭を上げた。
「塩屋殿の意思を継げる者は、ヤス殿しかおらぬ。どうか、こんな会合衆でございますが、ヤス殿の力になれたらと考えておりまする」
彼らはそう言うと、もう一度深々と頭を下げた。
「は、はあ」
俺には返す言葉が見つからなかった。そんなことを言われたって、もうどうしようもない気がした。胸にこみ上げる感情は呆れだけだった。
「会合衆に、塩屋殿の席が空いておられます。是非、ヤス殿に来て頂きたく存じます」
彼らは俺をもう一度会合衆にしてくれる、そういうことらしい。が、それは果たして最善の決断なのだろうか。心配なことの方が多い。
「でももし俺が会合衆になったら、織田はどうするでしょうか。きっとすぐに勘づいて、また何かしてくるのでは?」
「塩屋殿が居なくなったことにより、織田と堺の衝突は避けられませぬ。遅かれ早かれ、織田は何かしらの手段を使ってくるはずでございます。ヤス殿が会合衆になったとて、もう織田は何も思いませぬ」
「織田はそこまで堺を煙たく思っているのですか?」
「ええ。堺は日本一の商業都市でございます。自分のものにしたいのでしょうし、敵対するヤス殿のことも相当嫌っておられるでしょう。おそらく、織田が介入してくるのも時間の問題かと」
「それは、軍事的な介入ですか」
「その可能性は大いにあるかと」
軍事的な介入、つまりそれは戦を意味する。織田を怒らせた以上、もうこれを回避する術はほとんどないだろう。俺はこの男が何をしてきたか、いくつか歴史の授業で習った。極悪非道、その一言に尽きる。
俺はゆっくりと目を閉じた。考えることが大量にあった。今後の不安、心配。こうなってしまった責任、後悔。そんな感情が縦横無尽に頭の中を走り回る。おかげで頭痛が酷かった。
「もう織田は動き始めてますか?」
「いいえ。まだそのような情報はまだ入っておりませぬ」
であれば、多少の猶予はあることになる。だがあくまでも多少だ。せいぜい数週間であろう。その期間の間に俺たちは何かしらの対抗策を練らなければならない。
「ヤス殿、まずは軍の用意が必須でございます。織田は数万の兵を連れてくるかもしれませぬ」
彼の言うことも一理あるかもしれない。だが、兵を集めて戦をしては意味がない。争いは平和をもたらさない。不幸な人が増えるだけだ。ここで戦をしてしまったら、他の戦国大名と同じだ。武力を使わずして日本を統一することに意味があるのだ。
「いえ、軍はいりません」
「はい?」
「兵は集めなくて結構です」
「織田軍と戦になるのでございます!呑気なこと言ってられませぬ、ヤス殿」
「戦はしません。戦をしては不幸になります」
会合衆の人たちは皆、首を傾げた。俺の言っていることがあまり伝わっていないらしい。まあ、仕方がない。そういう時代だ。
「では、どう致すのです?」
「まあ、どうにかします」
「どうにか?一体どうするのでございますか?」
俺は一瞬、口を開けたまま考えた。
「えーっと、まあ、これから考えようかと……」
彼らは呆れた目で俺を見た。
「ヤス殿、早くしないと大変な目に合いますぞ」
俺はうなずいた。
わかってる。そんなことは百の承知だ。だが他にも手はあるはずだ。現代世界では一部の国ではあるが、ある程度は武力争いを避けることに成功している。効果的な方法があってもおかしくはない。
「とりあえず、少し待ってください。いい方法をすぐに考えます」
「心得た。では、明日の会合衆の会議までに方針を決めてくだされ」
「はい」
彼らの切羽詰まった様子が見て取れた。状況の深刻さは俺もよく理解している。だからこそ俺は本気で挑まねばならない。堺の正念場は、まさに今だ。そして俺がその舵を切ることになる。
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