第31話 負の連鎖でござる
塩屋さんは俺の方を振り返った。だが彼は短刀を手放そうとはしなかった。俺はその場を飛び出した。10メートル先の塩屋さんへ駆け出した。しかし、俺が近づいてくるのを確認した塩屋さんは、もう一度短刀をしっかりと握り直し、大きく前に振りかぶった。
まずい。俺が追いつくより先に彼は自害してしまう。あと1秒でも早く止めに行っていたら……。
だが諦めるのもまだ早い。俺は自分の右足を塩屋さんが握る刀に照準を合わせた。手も伸ばしてもきっと届かない。走ってきた勢いのまま蹴り上げる作戦だ。元サッカー部の力を見せる時だ。
その時、塩屋さんは刀を勢いよく自分の腹に突き刺した。だが同時に俺の右足もその刀に当たった。
刀は塩屋さんの手から離れ、凄いスピードで飛んでいって民家の壁に刺さった。ドスッという鈍い音が、その狭い路地に響いた。
「塩屋さん、大丈夫ですか!?」
俺は彼のお腹周りを確認した。血は少し出ている。だが軽症で済んだようだ。傷はかなり浅い。
「ヤス殿、邪魔するな!」
塩屋さんは壁に刺さった短刀に手を伸ばした。
「待ってください!」
俺は彼の手を遮った。彼は俺のことを獣のような目で睨みつけてきた。そんな彼の姿は今まで見たことがなかった。
「どけ!お主には関係ないじゃろ」
「塩屋さん、落ち着いてください!」
俺は彼をその場に座らせた。初めのうちはかなり抵抗したが、徐々に落ち着きを取り戻してくると、大人しくなっていった。口数もそれに比例して減っていった。
彼の顔を見ると疲れが溜まっているのが一目でわかる。白髪も以前と比べてかなり増えた気がする。相当追い詰められていたのだろうか。
俺はいつの間にか、一時期抱いていた塩屋さんに対する恨みや怒りを全て無くしていた。俺以上に彼は苦しんでいるように見えた。
「何かあったんですか?」
俺は少し時間を置いて、彼にそう尋ねた。だが彼も口を開こうとはしなかった。それもそのはずだ。選挙の不正に関わっているかもしれない彼が、俺に簡単に事情を話すわけがないのだ。
でもここで彼を見捨てるわけにはいかない。きっとあの刀で今度こそ自害してしまうに違いない。敵味方関係なく、誰1人として死んで欲しくはない。それが俺のモットーでもある。いや、もしかしたらただの偽善なのかもしれない。だがそれでもいい。悪でなければ何でもいい。
「うちのパン屋に来ませんか?」
俺はダメ元でそう聞いてみた。彼は首を横に振った。
彼の言動を見れば、彼が何かを隠しているのは明らかだった。それがきっと悩みの種なのだろう。もしかしたらそれは、選挙の不正に関わっていることなのかもしれない。
「困ってることがあったら、俺に言ってください。俺で良ければ相談に乗りますよ」
「お主に言えるわけがなかろう」
「なぜ?俺も多少はあなたの力になれます」
「駄目だ」
塩屋さんは食い気味に反対した。敵に弱みは見せられない、ということなのか。だが、俺は彼の目から涙が出ていることに気がついた。彼は急いでそれを拭った。
俺は塩屋さんの肩を持った。
「人に話せば気が楽になります。俺を使ってください」
優しく詰め寄り、会合衆の内部事情を伺いたい。そういう考えを持ちつつも、やはり彼のやつれた顔を見ているのは、1人の人間として苦しい。彼を助けてあげたいというのも本心だった。
「……」
彼はうつむいた。
「塩屋さん?」
「これをヤス殿に話せば、某だけでなくお主の首も飛ぶ。某がパン屋に行けばそこにいる全員の首が飛ぶ。それでも聞きたいのか?」
塩屋さんは俺にそう言った。
「ヤス殿はもうほとんどのことをご存知であろう」
そのまま塩屋さんは続けた。だが先ほどよりも小さな声で。
「え?」
「某の犯した馬鹿げた不正のことぞよ」
俺は驚いた。彼は、とうとう自分の不正を自白した。俺は耳を研ぎ澄ました。彼の言葉を一言一句聞き逃したくない。
「だが某はただの操り人形にすぎん。娘の命を奪うと脅されて、選挙で不正をしてヤス殿を倒せと命ぜられたのだ」
「それって、もしかして信長……?」
彼は小さくうなずいた。
「某はもう限界でござる。民の風当たりも、脅しも日に日に強くなる一方じゃ」
「……」
「いいか、ヤス殿。この国を変えられるのはお主しかおらぬ。お主しかあの巨大な悪に立ち向かえるお方はおらぬ」
塩屋さんは俺のことを見つめた。だが今度は温かい目をしていた。それは俺が彼と出会った頃、彼と協力していた日々のことを思い出させてくれた。彼はまだあの当時の優しい人のままだった。ただ、信長に好き放題操られていただけだったのだ。
塩屋さんの証言が取れた。これで織田信長と会合衆の繋がりは事実であることがはっきりした。堺は事実上、織田信長の支配下にあるようなものだったのだ。
「これは全て某の独り言だ。ヤス殿はたまたま耳にしただけでござる」
俺は彼が言っているその真意を理解した。
「ささ、早く行きなされ。一緒にいたことがバレてはお主もまずいであろう」
「はい。塩屋さん、ありがとうございました」
俺は深々と頭を下げた。彼は先ほどよりも良い顔をしていた。
「早く!」
彼は俺を催促した。もっと色々な話をしたかったが、そんな余裕はなかった。俺は小走りでその小さな路地を抜け出し、大通りに出た。夕方の堺の街は人で溢れていた。オレンジ色の空に照らされた街の風景は美しいと言わざるを得ない。だがそれは見かけ上の話だ。
秋の冷たい空気が、風となって俺に吹きつけた。夏の暑さはもう微塵もなく、これから寒くて厳しい季節を迎えようとしている。そんな不吉な予感をのせて吹き荒れる風のなか、町の人はそれぞれの人生を一生懸命全うしている。誰しもが自由に生きたいと思っている。
行き交う人を見ながら、思索に耽っていたその時だった。
「キャアアアアアアアアアア!!」
女の人の叫び声が街に響き渡ったのだ。その声は俺のすぐそばから聞こえた。俺は声のする方に目を向けた。大勢の人が走って逃げていく。何が原因かはすぐに分かった。男が真っ赤に染まった刀を持って歩いていたのだ。
「おい!てめえ動くな」
その男は俺に気付いて、刀を向けた。そして少しずつ近づいてきた。
俺はこの男を見たことがあった。2年前の選挙の時、俺の演説に強烈な野次を飛ばしていた男だ。一際怖い印象があったので、2年たった今も鮮明に覚えていたのだ。
その男は俺の目の前までやってきた。
「お前、この血が誰のもんかわかるか?」
その男の発言は恐ろしいものだった。だが俺は極力冷静になろうと努めた。
「いえ、わかりま……」
そう言おうとした時に、俺はその答えを知ってしまった。刀からはポタポタと血が垂れていて、その跡を目で追うと、先ほどまで俺と塩屋さんがいた路地にたどり着いたのだった。
「お前まさか……」
冷静になろうと努めた自分が馬鹿だったことに気がついた。こいつは信長の手下なのだろう。おそらくずっと俺たちを監視していたのだ。
「ふへへへへ。次はお前だ。死ねクソが」
その男は刀を振りかぶらずに、直接俺の心臓を目掛けて突いてきた。俺は咄嗟によけて心臓に刺さるのは免れたが、左腕に刀がかすった。服が破れて、ジアジワと血が出てきた。
「へ。なかなかやるな、おま……」
その男は喋っている途中、突然その場に倒れた。
「ヤス殿!お待たせ致しました!」
そこにいたのは秀吉さんだった。俺は目の玉が飛び出た。左腕の痛みも忘れるほどだった。
「気絶させておきました。お怪我はございますか?」
「ありがとうございます。左腕を少しです。でもなぜここに?」
「綾殿が先に帰ってこられて、心配だから見に行ってくれと」
綾さんに命を救われたも同然だ。帰ったらありがとうと言わなければならない。だが、それ以上に俺にできた心の傷は大きい。塩屋さんが殺された事実は、俺にとっては受け入れがたかった。
「ここにいては危険でござる。まずは帰りましょうぞ」
「……はい」
様々な感情が頭の中で渦を巻いている。整理するのに時間がかかりそうだった。
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