第30話 やめろぉおおでござる
正直に言おう。俺たちは行き詰まった。直江さんの持ってきた情報をもとに、織田信長が黒ではないかと目星をつけた。そこまでは順調だった。
だが、信長に仁義は存在しない。自己の為なら仲間の死をも厭わない。しかし、その残虐さを持ってしても、信長の圧倒的なカリスマ性が綻びを隠してしまう。優秀な部下たちを揃え、一切の隙がない。
そのせいか、我々もそう迂闊に動き回れない。
もし仮に、会合衆の不正は信長が支持したものだったとしよう。そうなれば俺たちが会合衆の周りを嗅ぎ回れば、そのことも信長の耳に入ることになる。そうなってはこちらの手札を相手に見せているようなものだ。最悪の場合、不正の証拠を持っていることがバレる可能性だってある。そう考えた結果、会合衆に近づくことは強く躊躇われた。北宋経堂に侵入して情報集めなどは言うまでもなく不可能だ。
毎日毎日、同じことを何度も話し合った。だが結果は出るはずもない。俺たちの会議は同じことを何度も繰り返す堂々巡りだった。必然的にイライラは募る一方だった。どうにかして政治の実権を取り返したい。上手くいく道がいくらたっても見えないのだ。結局、俺たちは2年前と全く同じステップから抜け出せなかった。次に踏み出せない憤りは俺の胸に次第に溜まっていっていた。
「あ、あれ美味しそう!」
俺と綾さんは気晴らしも兼ねて、パン屋の買い出しに出かけていた。ついでに買い物もしようかと考えている。その帰りだった。
「これ?確かに美味しそう」
俺たちの目に入ったのは、美味しそうな蕎麦屋だった。俺も何回か入ろうと思ったことはあったのだが、チャンスを掴めずにいた店だ。蕎麦に惹かれた俺たちは、店内に入った。平日の昼過ぎという時間のせいか、人の姿はまばらだった。
一番奥の2人がけの席に腰掛けた俺たちは、お品書きに目を通した。今の暦にしたら季節はもう9月だ。温かいメニューもポツポツと散見した。
「どれにする?」
思えばこうして2人で外に出るのは、随分と久しぶりかもしれない。こんなのどかな時間をもっと過ごしていたい。
「これ、良さそうじゃない?」
彼女はざる蕎麦に興味を持っているようだ。意外と渋い好みをしている。
「じゃあ俺もそれで」
俺は店員さんにざる蕎麦を2つ注文した。感じの良い店員さんで、注文を繰り返してくれた。この風習はこの時代からあったのか、と少し感心した。
「最近体あんまり動かしてないから、太ってきたんだよね」
「そう?あんまりわかんないけど」
「久しぶりにサッカーとかしたいなぁ」
「やってたの?」
「高校でちょっとね。大したことないけど」
と、蕎麦を待つ間はたわいない話に花を咲かせた。このぐらいのレベルの話が心地よいと思える。疲れている証拠だ。他にも俺たちは当時のことを思い出しながら、笑い合った。
「そういえば、タイムスリップした時、どこにいた?」
「確かー、カラオケで歌ってたかな?」
曖昧な記憶を引っ張り出す。
「私は家で友達とライブを観てたの。途中で急に飛ばされちゃって」
「俺も。マサが歌い出したら急に」
「何でだろうね。何で急にこんなことになったんだろうね」
「さあ。今となっては疑問にも思わないや」
俺と綾さんは笑った。正直今の俺たちはこの世界を生き抜くので精一杯で、元の時代に戻ろうと思う暇がない。そして戻りたいともそれほど思わない。ある程度は今の生活に満足している。
それはきっと彼女も同じだ。なんとなくだがそう感じている。彼女の笑顔がそれを証明している。
ちょうどその時、ざる蕎麦が運ばれてきた。
「どうぞ、ごゆっくり」
出汁のいい匂いが俺の食欲をさらにかき立てる。俺は箸を持って蕎麦を頂いた。
つゆの味が蕎麦に絡まって、蕎麦本来の味を邪魔することなくお膳立てしている。おかげで蕎麦の風味が鼻をスーッと通るのがわかるほど、食材そのものの味が感じられた。
「美味しいね、ヤスくん」
「うん」
こんな良いお店が近くにあったとは。また今度も来よう。できればまた綾さんと2人で。
俺たちはあっという間に食べ終わった。一瞬でお腹がいっぱいになってしまった。俺は会計を済ませて、店を出た。先に外で待っていた綾さんは、背伸びをしていた。
「ごめん、お待たせ」
俺は綾さんにそう声をかけた。その時だった。
彼女の後ろに見覚えのある顔がうっすら見えた。人混みの中に紛れて、俺はその人を一瞬で見失った。それが誰だがわかる前に姿が見えなくなってしまった。
「どうしたの?」
「なんか、見覚えのある人がいたような気がして……」
気のせいだとは思わない。絶対に誰かがいた。
「塩屋殿!これをお忘れですよ……」
その時、人混みからそんな声がした。おかげで俺ははっきりした。先ほど見た男は塩屋さんだ。だがどうして、彼は今この場所にいるのだろう。平日のこの時間は、会合衆の会議があるはずなのだが。
そう思うと、不審な匂いがプンプンとする。今すぐ追いかけようかと思いたった。でも、今の俺にその決断は簡単には下せなかった。
その理由は簡単だ。目の前には綾さんがいる。俺は彼女を1人にしたくなかった。この町で綾さんを1人にするのは問題だ。彼女の身に何かあっては取り返しがつかない。
「まあ、いっか。一緒に帰ろっか」
俺は追いかけることを諦めて、彼女の手を引いた。織田に追われている可能性がある以上、彼女までをも危険に晒す必要はない。
「ちょっと、駄目よ。追いかけなきゃ」
彼女は俺の手を振り払った。彼女は、俺の異変を感じ取っていたのだ。
「私のことは良いから。ヤスくんは今自分のすべき事をして」
「綾さん……」
「ほら、そんなのもいらない。早くしないと見失うよ!」
彼女は俺の背中を強く押した。
「ごめん、とりあえずすぐにパン屋に帰って!また後で」
俺は申し訳なさでいっぱいだった。後できっちり謝ろう。
しかし、そうと決まれば、あいつを追いかける。何かが起きそうな予感がプンプンとするのだ。俺は大急ぎで、そいつが消えた方向へ走った。後をつけるだけだ。声はかけない。
塩屋さんの姿はすぐに目に入った。手に荷物を持ちながら、ゆっくりと歩いている。俺は彼の数メートル後ろを歩いた。
「はぁ」
塩屋さんは突然立ち止まり、大きくため息をついた。その様子では、ただ歩き疲れただけとは思えない。精神的にやられているのかもしれない。
彼は重い足取りで狭い路地に入った。怪しすぎる。だが、狭い道になると俺は後ろを追っているのがバレるかもしれない。俺は狭い路地の角で少し待機した。遅れて行こうという考えだ。彼の気配がなくなってから、俺もその道に入った。
しかし、俺はその光景に少し驚いた。塩屋さんは物陰に立ち尽くし、ぼーっと天を見つめていたのだ。俺はバレないようにジワジワと近づいた。10メートルほどの距離まで詰めることに成功した。
「申し訳ございませぬ……」
塩屋さんは急にそう言った。まさか俺に言ってるのか、とも思ったが違うようだ。彼は空をずっと眺めている。敵ながら、彼のことが心配になった。
そして次の瞬間、彼は鞄から包丁のようなものを出した。それを刃が彼自身の方を向くように握りしめた。俺はそれを最悪の事態だと悟った。塩屋さんは切腹しようとしているのだ。
「嘘だろ!?」
俺は思わず気持ちを声に出してしまった。この時、俺にはバレてはいけないなどという気持ちは一切なかった。ただ塩屋さんの切腹を阻止しなくては、この一心だった。
「塩屋さん、やめろぉおおおおおお」
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