第16話 保険治療でござる
そして迎えた入院最終日、治療費を払う約束の日がきた。俺の背中には大きな傷跡が残ったが、痛みはほとんどなくなった。
あの日以来、俺は生きる意味を得たようだった。彼らは一向に俺を訪ねては来なかったが、どこかで繋がっている気はしていた。だが同時に、不安は日を重ねるごとに大きくなっていった。秀吉さんは頑張ってくれているのだろう。彼は歴史に名を残すほどの天才で、本来の歴史では天下統一も果たした男だ。そんな彼なのだが、今回の件に関しては困難を極めているのかもしれない。
可能性はゼロではない。彼の喋りの技術の高さは秀でている。人望を掴むのにはそれほど時間はかからないだろう。果たして堺の会合衆は彼の言葉に耳を傾けてくれるのか。
そもそも「保険」という考えは現代の考えだ。人は現代までに様々な試練に直面してきた。二度にわたる世界大戦を始め、パンデミック、地震及び津波、火災。もっと数えきれないほどあるだろう。「保険」というのは、それらの問題の打開策の1つだ。これは人類が長年の努力を積み重ね、考えに考え抜いた上で編み出したものだ。
では果たして、この時代に「保険」というものはフィットするのだろうか。この時代の一般人の意識は今の人とは全く違うだろう。格差社会が一般化しているこの時代に、皆が平等に支払い、受け取れる「保険」は容認されるのだろうか。改めて俺は疑問に思った。
そんなことを考えているうちに、約束の時間まであと1時間しかなくなっていた。それでも秀吉さんは帰ってこなかった。俺は徐々に焦ってきた。でも、諦めるという選択肢はない。ここまで来たんだ。後には引けない。
刻一刻と、俺らを置き去りにしながら時間は進んでいく。やがて、あのウザったらしいヤブ医者は姿を現した。
「今日で退院やで。よかったでござるな」
彼の顔から笑みがこぼれる。だが、それは患者が無事に退院できたという喜びではない。そのぐらいのことは簡単に予想がついた。
「背中、痛んだらすぐに来るんやで。診察ぐらいやったら無料でええからな」
ヤブ医者は続けた。俺はその汚らしい笑顔に吐き気を催した。
「……」
「それと、寝る時は注意してや。まだ仰向けになったら痛いと思うから、基本はうつ伏せでお願いしますな」
ヤブ医者はまたそう言った。この男が何を言おうと、俺の彼に対する嫌悪感は増すばかりだ。
「はあ」
ますますこの男に腹が立った俺は、わざと彼に聞こえるようにため息をした。
「なんか、申し訳ないなぁ」
ヤブ医者は俺のため息を聞くと、そう言った。思っていた反応とはかけ離れていた。
「わしだって好きで身売りとかしてるんやないんや」
「……」
「最悪、身売りはさせてもらう。でも悪く思わんでや。わしら医者にだって、養わなあかん女房もおる。子供もおる。お金に困っとんのはお前らだけやないんや」
彼には同情の余地は一切ない。人の命を売りさばくなんて、決して許される行為ではない。それは俺も重々わかっている。でも彼の本音に耳を澄ませば、何かがわかる。彼だって必死に今を生きているのだ。それは誰しも同じなんだろうか?誰にだって生きる権利はある。だからこそ、尊い命の奪い合いが起きてしまう。これは人間社会が抱えた最大のジレンマなのかもしれない。
これをウィンウィンな関係で解決できるのは、もう保険治療しか残されていないのではないだろうか。俺はますます、秀吉さんが上手くやっていることを願うようになった。保険の導入は、この場にいる全員のためになる。いや、病院に行けなくて困っている、大勢の人のためになる。ご飯を食う余裕もない医者達のためにもなる。メリットばかりではないのは言うまでもないが、改善が期待できるのは間違いない。
「そろそろやぞ。お金はまだか?」
医者は俺に聞いた。時間は迫りつつある。
「すいません。もう少し待ってください」
「これだけ待たせるってことは、しっかり用意してくれてるってことやろ?」
俺は何も言えなかった。医者のその指摘にはぐうの音も出ない。早くしてくれ、秀吉さん。頑張ってくれ。俺は両手を合わせ、彼が帰ってくるのを願った。
その時だった。
「ヤス殿!!」
と声がしたすぐ後、ガラッとすごい勢いで戸が開いた。そこには秀吉さんが立っていた。
「秀吉さん!」
彼はズカズカと室内に入ってくる。手には大きな袋を持っている。俺はそれが金であることにすぐに気づいた。
「金を持ってきたでござる。これで十分じゃろう」
医者は秀吉さんから袋を受け取り、中身を確認した。
「おおきに。こんな大金、よう集めて下さったな」
医者は感心した。
「これからは患者ごとに記録を取りなされ。患者の数、病状などだ。それを月末になれば役所に届けなされ。さすればその記録に応じた金がお主に入るようになり申すぞ」
「そ、それは誠か」
医者は随分と驚いた。それもそのはずだ。
「左様じゃ。これから、医者にかかる費用は役所が出す。民ではないのじゃ。これを『健康保険』と申す」
「健康保険?」
「ああ。ヤス殿が考案し、某が会合衆に話を持ちかけたのじゃ」
「しかし、役所はどのようにして金を医者に払う?役所の財政はかなり逼迫していると伺い申したが」
「年賀を少しかさ増しする。境に住む民全員から少しずつ金を集める。それで全て解決じゃ」
秀吉さんは胸を張った。俺の方をチラチラ見た。俺は笑顔で返した。俺と彼の作戦は、無事に成功した。俺は胸を撫で下ろした。これで綾さんも救われる。
「この通り、金は集めた。では、某らはここで」
秀吉さんは俺に手を差し出した。俺はその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。俺はやっと生きた心地がした。やはり彼は素晴らしく頼れる人間だ。
「全てヤス殿のおかげでござる。某はすごく勉強になり申した」
彼は俺を褒めてくれた。俺はかなり嬉しかった。人の役に立てたという実感が湧いた。これほどまでに人の喜ばれたのは人生で初めてかもしれない。
「秀吉さん、すごいですね。よく短期間でこんな大金を……」
「会合衆のやつらも、大いに賛成してくれたのじゃよ。まずは彼らに礼を言わねばらぬ」
「そうですね。でも、その前に……」
俺らは建物を出た。俺にとっては久しぶりの外出であった。やはり空気が美味しい。空はよく晴れて、生きるためのエネルギーを俺にくれる。
昼頃という時間帯もあり、人の数はとても多い。
「そういえば、ヤス殿を斬ったあの通り魔、先日捕まったそうじゃ」
「そうですか。彼はなぜそんなことをしたのでしょうか」
「わかりませぬ。何かしら理由があったのでしょう」
俺と秀吉さんは、綾さんのところへ向かった。彼女は近所の宿に泊まっているようだった。俺は妙にワクワクした。
「ここでございます」
俺は戸をゆっくり開けた。綾さんは無表情のまま縫い物をしていた。この数日間、大きなストレスと闘ってきたのがよくわかった。
「綾さん、綾さん」
俺は彼女に声をかけた。彼女は振り返って、驚いた顔をした。彼女は持っていたものを置いて、俺に駆け寄ってきた。
「ヤスくん、秀吉さん……。私、助かったの?」
俺と秀吉さんは大きくうなずいた。彼女は感極まって泣いてしまった。そしてその場に崩れ落ちた。
「もう駄目かと思った....」
彼女は涙しながらそう言った。俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ごめん綾さん。俺のせいでこんなことなっちゃって」
「私だってごめん。この前会った時、あんな酷いこと言っちゃって」
彼女は申し訳なさそうに、頭を下げた。
「大丈夫。綾さんに会えて本当に良かった」
「やっぱお主らは仲が良いのー。羨ましいのじゃ」
秀吉さんは笑った。俺らもつられて笑ってしまった。彼女の顔に笑顔が溢れたのを見ると、俺は安堵した。とにかく安心した。また元の日常に戻れることを。
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