第10話 逃亡でござる
「秀吉は裏切りだ!あいつも斬れ」
信長の声は廊下にまで聞こえた。そして刀のぶつかり合う音も同時に聞こえた。俺ら3人は長い廊下を必死に逃げながら、秀吉さんの幸運を祈るほかなかった。
俺らは階段を見つけ、駆け下りた。運良く、一階にも人の姿はなかった。俺らは走りに走った。
外に出れた。もう息が切れていた。でも気にならない。俺らは全力ダッシュで逃げ続けた。橋を渡った。すると、見慣れた町に出た。夕方の町は、いつも通り賑わっている。俺らは走るのをやめ、その人混みに紛れて歩いた。
「これだけ人がいれば、なんとか....」
助丸さんは言った。綾さんはうなずいた。俺らはゆっくりと歩いた。たまに通りがかる侍にビクビクしながら、店に向かった。一瞬たりとも心が休まる時間はなかった。
「ごめん....。こんな目に合わせて」
俺は2人に謝った。
「もういい。謝んないで。私も結構言っちゃったから」
綾さんは俺に慰めるように言った。彼女は俺よりずっと前を向いているように感じた。彼女には信長に喧嘩を売ったことを後悔していないようだった。逆に、俺はまだ後悔がある。もっとうまく言えていたら、あんなことにならなかったかもしれない。
「ちょっと、しっかりして!」
彼女は俺の肩を叩いた。
「あの対応でよかったのよ。ヤスくんは正しかった」
綾さんは俺に言った。
「ヤス殿は、我らのパンと尊厳を守ったのでございます」
そこまで言われると、俺はなんだか良いことをしたのではないか、と少し思えてくる。
やがて、店が見えてきた。昼にここを出てからさほど時間は経っていないのに、とても懐かしく感じる。やはりここが俺の居場所だ。温かい仲間に囲まれ、支えられ、なんて俺は恵まれているんだ。
ガラッと戸を開ける。お客さんの姿も多い。
「おかえりなさいませ」
裕太郎さんは俺らが帰ってくるのを見て、声をかけた。
「どうでした?上手くいきましたでしょうか?」
綾さんは首を横に振った。
「そうですか....」
裕太郎さんは俺らの表情から上手くいかなかったことを察し、曖昧な返事をした。そしてそのまま通常業務に戻った。その時だった。
「皆様、ご無事でございますか」
振り返ると、着物が血だらけの藤吉郎さんが立っていた。手には真っ赤に染まった刀を握っている。いや、もう藤吉郎さんではない。歴史に名を残す、あの有名な羽柴秀吉なのだ。そんな大事な事実に、俺は全く気がつかなかった。
「秀吉さん.....」
秀吉さんは息を切らしていて、とても疲れた様子だった。
「秀吉殿、まず中でお休みくだされ」
助丸さんは秀吉さんを中に入れようと催促した。でも秀吉さんはその言葉を受け入れなかった。
「そんなことをしている場合ではござらぬ」
秀吉さんは焦った様子だった。袖から血がポタポタ落ちている。
「もうこの店は捨てなされ。役人が火を放ちにくるぞ」
秀吉さんの一言は、店中の人に衝撃をもたらした。
「信長様に歯向かったが最後、もうこの町にはいられんのか……」
助丸さんは弱々しくそう言った。皆、失意のどん底に突き落とされた気分だった。やっとの思いで積み上げてきた物が、一瞬で崩れる。
だが、俺は少し前から、こうなることに薄々感づいていた。あの信長だ。許すはずがないのだ。
「さっさと荷物をまとめなされ。すぐにこの町から出るぞ」
秀吉さんは言った。俺らは急いで準備に取り掛かる。綾さんと助丸さん、権兵衛さんは厨房の中をくまなく捜索した。レシピや道具などを集めた。裕太郎さんは店内のパンをかき集め、食料の確保をした。
俺は二階の倉庫に向かった。持てるだけの衣服をかき集め、袋に詰め込む。小麦粉など、パンの材料は無視せざるを得なかった。
その時、真っ暗な倉庫の中でキラッと光るものがあった。俺はそれを手に取った。それは俺が大切にしていた、あのネックレスだった。俺は迷った挙句、それを首につけた。
「ねえ!」
綾さんの焦った声が一階からした。
「私のブレスレット知らない?私の宝物なの」
「どこにあるの?」
「今そっちに行く!」
綾さんは階段を駆け上がってきて、自分の部屋に入った。
「あった!これだ!」
彼女は引き出しの中から、ブレスレットを引っ張り出した。だが、俺はそのブレスレットに目を奪われた。驚いた。俺のネックレスに付いている石と全く同じものが、綾さんのブレスレットにも付いていたのだ。
「おい、奴らが来たぞー!」
下の階から、秀吉さんの声が聞こえた。
「やばい!早く行きましょ!」
綾さんはブレスレットを手につけ、一階に降りて店を出た。俺も後に続いた。
俺は自分の目を疑った。店にはすでに火がつけられていた。バチバチと音を立てて燃えている。
「なにこれ....」
綾さんは呆然と言った。俺は返す言葉もなくそれをずっと見ていた。木でできた建物は、凄い勢いで燃え広がった。俺と彼女が立っているところにも、火が段々と近づいてきた。
「おい!何をしておる!早く逃げるぞ!」
助丸さんは綾さんの手を掴んで、勢いよく引っ張った。
「あっ!」
綾さんは急に叫んだ。綾さんのブレスレットが瓦礫の上に落ちるのが見えた。それでもお構いなしに、助丸さんは彼女の手を離さず走る。
「待って!私の.....」
その時、地面に落ちた彼女のブレスレットは炎に包まれた。店からの飛び火が瓦礫に燃え移ったのだ。火の柱を立てて、勢いよく燃えた。
俺らはその爆風に軽く吹き飛ばされた。その衝撃に耐えきれず、綾さんは倒れてしまった。
「綾さん!しっかりして!」
俺はしゃがみ込み、彼女に手を差し伸べた。しかし綾さんはそこでうずくまったまま、動こうとしない。
「私のパン屋が.....」
「綾さん!まず逃げよう」
「私のブレスレット.....。お母さんの形見が.....」
「綾さん!」
俺は何度も彼女に声をかけたが、反応はない。ただ涙を流すだけだった。
「もう火がそばまで来てる!早くしないと逃げ遅れる!」
彼女はゆっくりと立ち上がった。俺は彼女の右手を握って、やや強引に走り出した。懐かしい町並みを横目に、俺らは駆け抜けた。ここに来てそれほど時間は経っていない。だけど思い出がいっぱいだ。俺は思い出すたびに、涙がこぼれそうになる。この町で過ごした時間が俺よりも長い彼女にすれば、その傷跡はさらに深いかもしれない。
彼女は今、何を思いながら走っているんだろう。そんなことを考えながら、俺は走っている。
町の端っこまで来た。みんなは俺らを待ってくれていた。
「山に入る。それなら追手には気付かれまい」
秀吉さんはそう言った。急に言われて、俺は困惑した。
「山に入って何をするんですか?どこに行くんですか?これから」
秀吉さんは下を向いた。
「もうこの町には、いや、信長の支配に及ぶところにはおられまい。その範囲外に行かねばならぬ」
「秀吉殿は、どうなさるおつもりだ。お主は信長の家臣じゃろ」
権兵衛さんは聞いた。
「某はもう、信長の家臣ではなく、ヤス殿の家臣じゃ」
「え、俺?」
俺は意味がわからなかった。俺には彼には助けられた思い出しかなく、彼の上に立つような人間ではない。そう思う。
「とにかく、急ぐのじゃ」
秀吉さんは鬱蒼と生い茂った森の中に入っていった。ここに足を踏み入れたが最後、俺らはもうこの町に戻って来れないのだろう。俺は後ろを振り返った。もう夕暮れ時だ。遠くの空が赤く輝き、町にも段々と明かりがつき始めている。
「ヤス殿!ヤス殿!」
俺は名残惜しくも、その町を出て、森の中に入った。不安で頭の中はいっぱいであった。
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