第8話 帰路
三日連続、深夜近くまで残業が続き、精神的にもう限界だった。労ってくれる家族も居ない三十路の俺は、今日も終電ギリギリの時間に仕事を終え、駅に走る。
ひい、へえ、とみっともなく息を切らしながら、重たい鞄を片手にひた走る。
あと数分で、最後の電車が行ってしまう。俺は必死になって足をせかせかと動かした。
「はあ、へえ、はあ」
ネクタイを緩めて、大きく息を吸う。
だが、駅のホームに辿り着いた俺は絶望した。電車は既に走り去ってしまったらしい。がらんとしたホームに居るのは、ぜえぜえとあえぐ俺一人だけ。
「あ、あああ……」
声にならない嗚咽が漏れ出る。やっちまった、と俺は力なく座り込んだ。
駅員さんが大丈夫ですか、と心配そうに声をかけてくる。迷惑をかけるわけにはいかない。そう判断して、俺はよろよろと立ち上がると駅を後にした。
「……どうすっかな。タクシー……は高くつくし、ホテルに泊まるのも……ああ、そこまで遠くないし、歩いて帰るか……」
ぶつぶつと呟きながら、俺は緩めていたネクタイを軽く締めた。
片道一時間半かかる道のりを、鞄を揺らしながら歩いていく。ネオン街から一歩出れば、たちまち光の乏しい廃れた街路地に入る。
不気味な程に静かな街路地である。俺はごくりと生唾を飲み込み、街路地をそろそろと歩いていく。
幼い頃から、暗闇が怖かった。暗所恐怖症、とでも言うのか、人気のない暗い路地が、まるで別世界にでも繋がっていそうな錯覚を覚えるのだ。
「……そんなわけ、ないのになあ」
三十にもなって、みっともない。俺は自嘲気味に笑って入り組んだ路地をかくかくと進む。
……だが、それまでのんきに歩いていた俺は刹那、危機的状況に陥ってしまう。
それも、非現実的なやつじゃなく、リアルに不味い状況に。
「おいおっさん、金出せよ」
電灯の明かりしかない、薄暗い街路地。俺はいつの間にやら数人の男たちに囲まれていた。
「え、へ?」
「持ち金全部渡せ。抵抗したら、どうなるか分かってるだろ」
脅しなのか本気なのか、よく分からない声で男が言う。
これは、いわゆる親父狩りと呼ばれるものなのか。……とうとう俺も狙われる歳になったらしい。
男たちは退路を断つように回り込み、恫喝する。
ここは怪我をしないためにも素直に従うしかない。俺はすぐさま鞄の中から財布を取り出した。
男の一人に、そろそろと手渡す。言う通りにしなければ大怪我だ。そう、自分に何度も言い聞かせた。
「へえ、中々良い額持ってるじゃねぇか」
財布を開きながら、男がにやにやと笑う。俺は中途半端に両手を挙げたまま、その場に立ち竦んでいた。
ああ、今月買ったばかりの財布だというのに、まさかここで手放す羽目になるなんて。
俺は自分のふがいなさに天を仰いだ。が、しかし、すぐさまぎょっとする羽目になる。
「――わ、やばい!!」
視界に映り込んだ影に、俺は悲鳴のような声を上げる。男共が胡乱な目つきで顔を上げ、そして俺と同じようにぎょっと驚く。
「なんだあれ……まさか、怪物っ」
途端に青くなる強盗犯。俺と彼らの間に割って入るように、それは現れた。
それはいわゆる、怪物と呼ばれる存在。無数の腕を生やした、サルのような珍獣だった。
そして、そのサルの化け物共々吹き飛ばされる形で、一人の女性が俺たちの前に倒れこむ。
「ああっ! あのちんちくりん! 自慢のコートが台無しじゃない!」
丈の長いコートに、帽子を目深に被った若い女性だった。彼女は苛立たしげに歯ぎしりをして、そして呆然とする俺たちに気付く。
「なにしてんの、あなた達……って、そこのあんた、噂の窃盗グループじゃない!」
女性が叫ぶように男たちこと窃盗犯を指さす。途端に、彼らの顔が蒼白に染まる。
「あ、あんたは、探偵!」
「そうそう、探偵業のついでにヒーローやってる女子。……それよりあんたら、こんなところで何してるの。また監獄にぶち込まれたいわけ?」
女性が睨みをきかせ威嚇する。男たちはさらに血の気の引いた顔で、後ろに下がった。
「現行犯で逮捕されたくなかったら、さっさと消えなさい。ヒーローは怪物退治の専門家。悪人のお縄にするのは警察の仕事だもの。……分かったら、さっさと」
「は、はい、すぐに立ち去ります、今すぐにっ」
窃盗グループは、俺に財布を突っ返すと慌てたように逃げ出していった。
俺は何が何だか分からない顔で、女性を見つめ、
「え、ええっと、……助かりました、あの」
「礼は不要よ、威嚇しただけだもの。……それよりあんたもすぐに立ち去りなさい。あたしは今、怪物退治をしているの」
女性がその指先をつい、と後方に向ける。そこには、腕をしならせるニメートル級の獣がいた。
「あんたも、用心しなさいよ。世の中物騒なんだから。……普通の生活をしたかったら、あたしたちと関わらないほうが身のためよ」
それだけ告げ、探偵と呼ばれるヒーローは、俺に背を向け走り出す。
俺は呆然と、その後ろ姿を見送った。
「……俺よりも、うんと大変な思いをしている人がいるんだな」
そう呟いて、俺は返された財布を見る。
きっと、あのヒーローは俺なんかよりもずっと険しい道を辿ってるんだろう。
俺はそっと息を吐き、駆け足で帰路を辿った。
明日もまた、頑張るか。
ヒーローの居る風景 明日朝 @asaiki73
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