第2話 通学路

 僕が毎日のように使う通学路は、数ある道の中でもだいぶ危険な部類に入るらしい。

 ……というのも、怪物と呼ばれるちんちくりんの化け物が、結構な確率で出現するからだ。


「シウルウ、シウルウゥ」

 いつものように路地を渡っていた最中、それは聞こえてきた。呪詛のように唱えられる不穏な声。僕は一瞬で身の危険を察知し、姿勢を低くした。

 一瞬の間を置き、人気のない路地にゆらりと現われる影。僕はなるべく相手を刺激しないようにと、相手を見据えながら後退する。


 今日出くわしたのは、半人半獣の、狼人間みたいな怪物だった。


 身長は、ざっと三メートルはあるだろうか。全身が真っ黒の体毛に覆われていて、だらだらとよだれを垂らす口元から覗くのは、刃物のように尖った歯。触れただけで皮膚が切れそうな鋭さだ。


 相手は、こちらに気付いているのかいないのか、ぶつぶつと呪詛の言葉を唱えながら、虚ろな目を剥いてうろうろと歩き回っている。まるで獲物を探しているみたいだ。


 ……できれば、気付かれる前に立ち去りたいのだけど。


 心の中でそっと呟き、僕は足音を忍ばせつつ、さらに後退りする。

 狼人間は目が悪いのか、僕に気付く様子はない。今回は追いかけられずに済みそうだ。

 

 しかし、そう安堵した直後だ。僕は足下に転がっていた空き缶を、あろうことか思いきり蹴飛ばしてしまった。


「あ、まずっ……」

 途端に、狼人間のぎょろりとした目が、僕に向く。

 ああ、なんて運が悪い。ばっちり目が合ってしまった。


 僕はすぐさま逃げようと踵を返す。僕が駆け出し、一拍おいて狼人間が走り出す。

 足の速さにはまあまあ自信があるけれど、なにしろ相手は半人半獣の怪物だ。


 背後から、地面を蹴る重たい足音が迫る。

 僕は人気のない路地を縫うように走り抜けていった。けれど、体力的に追いつかれるのは時間の問題のようだった。


 これは、とても逃げ切れそうにない。僕は早々に諦めて、足を止めた。

 空を仰ぎ深く息を吸う。そして次の瞬間、出せるだけの大声で叫んだ。

 

「誰かっ! ここに怪物がいます!! 誰でもいいから助けてっ!」

 我ながら、とても情けない声だった。震え切って裏返った、聞くに耐えない声。


 だが、ヒーローと称えられる人々は、ピンチの時には必ず駆けつけてくれるものらしい。

 

 路地の温度が一気に下がり、吐く息が白む。

 凍てつくような寒さを引き連れて、氷の女王と称される淑女が路地に降って現われた。


「怪物が――いると訊いたのだけど」


 毛皮のコートに白いドレスを纏う、銀髪の美しい女性だった。腰元まで伸びた髪を掻き上げ、彼女は悠然と微笑む。


「私が来たからにはもう大丈夫、安心して」

 薄い笑みを貼り付けて、彼女が背を向ける。

 それからはあっという間だ。狼人間は、吹雪を操る氷の女王の手によって、瞬く間に氷づけにされた。


 美しい女性は、恐ろしいほどの力を持った英雄だった。


「あの、助けてくださってありがとうございます」

 おずおずと頭を下げ、僕が感謝の意を示す。

 氷の女王という名の淑女は、気にしないで、と苦笑を浮かべた。


「それより、貴方は学生でしょう? 学校は大丈夫なの?」

「……あっ」

 逃げることに必死で、すっかり忘れていた。


 僕はお礼もほどほどに、慌てふためきながら走り出す。

 そんな僕を見送りながら、氷の女王は小さく呟いた。


「ああいう子たちのためにも、この町を守らなきゃね」


 彼女の零した一言は、吹きすさぶ冷や風の音で、はっきりとは聞こえなかった。

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