第5章 隠者の森

5-1 早朝の外政室(1)

 外政室の書庫は、必要に応じて入手した、ディレクトア、カーヴィアル、マルメラーデ、リューゲそれぞれの言語で書かれた原書が保管をされていて、管理監督者は当然室長となっているが、扉一枚隔てた向こう側の宮殿書庫は若干事情が異なっていた。


 宮殿書庫は公式文書の写本、保管から始まって、その後は国政の運営にあたってあらゆる知識を参考にすべく、王の使者の名の下に、公国くににおけるあらゆる主題と著者、とにかく可能な限りの書籍を公都ザーフィアに限らず収集する――と言う流れが早くから確立されていた。


 外政室側で入手した原書に関しても、基本的にはルフトヴェーク語に訳した写本を宮殿書庫の方に納本する仕組みになっている。


 ただし翻訳をする人間の写本能力に関しては大幅な開きがあるため、宮殿書庫の

中には清書専門の部署も存在している。


 そこはパソコンやワープロが存在しない以上、致し方ないところと言えた。


 これまでは、外政室に新しく入荷されてきた本はいったん、公国内で唯一5ヶ国語を操れたエイダルが全てざっと目を通した上で、外政室職員の翻訳能力に見合った本をそれぞれに振り分け、草稿を書き起こさせると言う事をしていたらしかった。


 キャロルもしばらくはそれで良いかと思ってはいたのだが、薬学本の編纂と言う思わぬ目標が出来て、宮殿書庫側にも諸々協力をして貰う必要が出てきてしまった。


 宮殿書庫の管理監督者、司書長サージェント侯セオドールに会う事は、ジーン・ストライドの話があったにせよ渡りに船と言っても良かったのである。


「……と仰る割に、キャロル様のその態勢はどう見ても『盗み聞き』ですが」


 外政室書庫と宮殿書庫を繋ぐ扉を開け放して、扉に身体を預けたまま動かないキャロルに、朝から安定のツッコミを入れるのは、壁側に立つイオだ。


「ここなら『今、外政室から入って来ました』って言えるじゃない」

「私がサージェント侯爵なら『しらじらしい』としか思わないでしょうね」

「大事なのは建前でしょ」

「それはまあ……そうなんですが……」


「って言うか、何でイオがここに? てっきり午後には出発だし、レックが来るかと思ったんだけど」


 首を傾げながらキャロルがイオを見上げれば、イオは真顔で答えを返した。


「エルはこの後のエイダル公爵との最終打ち合わせの時間まで、国軍の訓練場で陛下からのがあるそうですよ。まあ国軍の中には、陛下が実際どれほどの使い手でいらっしゃるかを知らない連中も多いそうですから、二重の意味で良いパフォーマンスなんでしょうね」


「あははは……」


(ゴメン、レック成仏して)


 エーレも怪我人には違いないが、ベオークもイルハルトに腕を斬りつけられてしばらくベッドの住人だったのだから、双方に同等のハンデがかかり、結局は元の実力差のままなのだ。


「エルに関しては、護衛が決して盗賊や暗殺者と言った力技だけを対象としていてはダメだと言う事を自覚する良い機会でしょうし、キャロル様に関しては、アルバート陛下のを、好意程度にしか捉えていなかった鈍感さを反省頂いた方が宜しいでしょうね」


「偏愛……」


「溺愛は、むやみやたらな可愛がりですから、むしろ特定の人物だけに偏った愛情を注ぎ込んでいる点からかんがみても、偏愛でしょう。しかも重度の」


「うう……」


 さすが元・国語教師。苦言の呈し方がひと味違う。


「だって……では、好きな人さえいた事がない剣道ひとすじの高校1年生だったのに……鈍感とか言われても……」


される前だったら、それも頷け

たかも知れませんがね。もういったい何度、夜をご一緒に過ごされてるんですか。充分鈍感でしょう」


「あの……イオ。今更なんだけどコレって……やっぱり普通じゃない……の?」


 キャロルがおずおずと首筋に手を当てれば、驚き半分、呆れ半分に、イオが目をみはった。


「……キャロル様。周囲の侍女や使用人達の間で、同じような赤い痕キスマークを、毎日のようにさらして歩いている女性がいますか? 無論、私は婚姻までキティとはしませんが。それとは別にしても、周りにいませんでしょう? そちらが普通です」


「…………」


 ガックリと膝から崩れ落ちるキャロルを見るイオの眼差しは、出来の悪い生徒に遭

遇した教師のソレだ。


「鈍感だったとお認めになりますか」

「……はい」


「いやいやいや! 主従逆転してません⁉︎ と言うか何故、外政室と宮殿書庫との連絡扉を開け放したまま、朝からそんな際どい話をこっちに聞こえるようにするんです⁉︎」


 外政室側から、雇用したばかりの文官グラン・ユーベルの悲鳴じみた声が聞こえる。


 相手がいない自分への嫌がらせか……と、小声で呟いているのが聞こえるが、ユーベルに相手がいるかどうかなんて知る筈がないと分かっているからか、そこは小声だ。


 もっとも筒抜けではあるのだが。


「未婚の男女が二人で密室に籠るなどと、下世話な噂好きの貴族や使用人連中には恰好の餌食だ。君は万一の際の証人だ。恨むなら、生真面目に早くから来た自分を恨んでくれ。話題は……たまたまだな」


「……貴族社会も大変デスネ」


 重度の薬学オタクらしいユーベル青年だが、頭の回転自体は、鈍くない。

 イオは僅かに口の端を歪めた。


「お分かりですか、キャロル様。貴族階級にないユーベル文官ですら、あっという間に察しがつく事なんですよ、そもそも。まあ、の世界にどっぷり浸かった人間ほど、その外の世界に鈍くなるのは、多少は仕方ありませんが」


「……何か、脳筋扱いされた気が」


「まさか。エルはともかく、キャロル様の場合は脳筋でだけでしょう?単に、分かる人が他にいるならそちらに丸投げしたいだけ。自分はそんな風にかしずかれる立場にないと、思いたいだけ」


「……ぐぅの音も出ない」


 その時、ガチャガチャと宮殿書庫の入口扉の鍵が回される音がして、キャロルもイオも、ハッと口をつぐんだ。


 声のトーンを落として、キャロルが立ち上がる。


「とりあえず、私も詳しく聞かされていなくて、どう振るまうかについても話の成り行き次第で任せるって言われてるの。だからイオもしばらく様子見でお願いして良い?」


「承知しまし――」

「では、私もご一緒しても?」

「⁉︎」


 外政室と宮殿書庫を繋ぐ扉は、本来の宮殿書庫の入口からはやや離れた、死角となる位置にある。


 宮殿書庫側から入って来た人間がすぐに声をかける事は不可能であり、キャロルとイオがそれぞれ弾かれたように、腰に差している剣に手をかけて振り返った。


「……は? ストライド侯爵閣下? え、いや、何で外政室側から――」


「昨日の別邸訪問のお礼に、先んじてお伺いしようと思ったんですが、まさか更に早くからお越しだったのが予想外で。他の文官の方に、外政室側からご案内頂きました。その方が早い、と」


「そ、そう……ですか……」


 何てことない、と言ったていで、ヤリス・ストライドが二人の背後に立ってはいるが、直前まで気配を感じなかったのも確かだ。


 決して甘く見るなと父親が言っていたのを思い出す。


「妻はまだ別邸ですが、母に関しての話の内容を早馬で知ったもので、その話をしたかったのですが……」


 やや高めのバリトン声は、一見人当たりが良さそうでいて、何を考えているのかを分かりにくくさせている。


 日本にいた頃、小説に付随していたCDブックやラジオドラマなどを何気に聴き込んでいたキャロルは、多分ちょっとした、声のオタクだ。一度聴いた声は、ほぼ忘れない。


 エーレに耳元で何か囁かれると途端に腰砕けになるのも、恐らくはその名残りだと自覚している。


「あの、でも、今ここに立っていらっしゃる場合じゃないですよね、侯爵?」


 それはさておき、キャロル自身は約束のない『盗み聞き』の確信犯でここにいるが、ストライドの方は宮殿書庫で約束をしている筈で、こんな死角にいていい訳がない。


 さすがに剣の構えは解いたものの、早く行った方が良いと示唆するキャロルに、ストライドは曖昧に微笑ってみせる。


「……約束の時間には、まだ少し早いんですよ」


退く気ナシか)


 キャロルとイオが内心で呆れているのを知ってか知らずか、唇の上に人差し指を乗せ、分かっていると言わんばかりに口を閉ざす。


 宮殿書庫の入口の方から、二人分の足音が聞こえて来たからだ。

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