4-17 侍女長の苦言

「……気を失うまでご寵愛されるのだけは、度が過ぎていると思いますが、それ以外は特に。これまで何一つ執着なさらずに帝王教育を受けてこられたエーレ様の唯一だと仰るのであれば、私共は真摯にお世話させて頂くのみにございます」


「ああ、頼む。彼女は俺の〝唯一〟だ。それにしてもリーアムにはすぐに通じるのに、どうして肝心の本人には通じないんだろうな……」


 エーレの苦笑いは一瞬だった。


 軽さの抜けた声で「リーアム」と呼ばれて、一瞬リーアムが身を引き締める。


「リーアムも覚えておいてくれ。この部屋に俺が彼女以外を招き入れる事はない。どんな立場の、誰が何を言っても、それを聞き入れる必要はない。何かあった時は俺の名を楯に叩き出してくれて構わないから、くれぐれも余計な人間をここに招き入れないで欲しい」


 使用人に金を握らせたり、何かしらの弱みを握って私室に忍び込んだ挙句に、既成事実を狙って居座られるなどたまったものではない。


 仮に弱みがなくとも「陛下に呼ばれている」「自分は側室候補だ」などと、貴族令嬢が言えば、下級貴族や大手商会などが持つ、名誉貴族位にある平民が多い使用人達はそれ以上何も言えなくなってしまうのだ。


 婚約破棄も、側室も、有り得ない。

 そこはリーアムに、徹底的に、使用人達に周知して貰う必要があった。


「逆に招き入れたら解雇だ、くらいに言っておいてくれて良いから」


 身体全体で起き上がって、寝台の端に改めて腰をおろしつつも、エーレの手は名残惜しそうに、俯せのまま動かないキャロルの髪を撫でている。


「……例のいわれのない罵詈雑言ばりぞうごん、リーアムの言った通りに、自分で思うよりもこたえていたみたいなんだ、彼女」


「まあ、やはり」


「だからこれ以上、彼女の内心こころを傷つけるような事はしたくない。この部屋の管理については頼んだよ、リーアム」


 部屋に帰って来て、例え誤解と言えど、しどけない姿の自分以外の女性がそこにい

る――などと、気分が良い筈がない。


 そうと察したリーアムも、頭を下げる。


「承りました、エーレ様」


「朝、大叔父上と会う以外の予定をまだ聞いていなかったけど、本人がそう言ってい

たなら、支度の方は頼む。彼女、カーヴィアルで皇太子殿下の護衛なんかも務めた事があるから、実は基礎体力が半端ない。俺が抱き潰して、一日、寝台ベッドに留め置こうとしても、上手くいった試しがないんだ。多分、ちょっとした睡眠不足と腰の痛みはあっても、起こせば普通に起きると思うよ」


「……エーレ様……」


 究極の理想は、今ある〝皇帝の箱庭〟ではなく、カティア・ストライドのような、己の内側にある「箱庭」で、何者の干渉も受ける事なく穏やかに時を過ごす事なのかも知れない。


 現実からの乖離は、病であって、病ではない。


 元に戻す研究とキャロルは言うが、存外難しい事だと言うのは、言った当人も感じているようだった。


 エーレなら、誰も知らない所でキャロルと二人で生きていく事――になるだろうか。


 まさかカティアの話は口にはしないものの、エーレが実際に口にしたのは、キャロルを〝綵雲別邸〟で囲ってしまいたいと言っているようなものだ。


 真面目な話から一転、真顔でとんでもない事を口にしているエーレを、呆れ果てた表情でリーアムが見やる。


「お願いですから、愛想を尽かされても仕方がないような鬼畜所業はお控え下さいませ。私もそうですが、亡くなった乳母のマーテルなどが、こんな風にエーレ様をお育てした覚えはないと、草葉の陰で泣いておりますよ」


「それは困るな」


 はは……っと、エーレが本気で困っているのか、判断の難しい微笑を浮かべる。


「……彼女が俺に愛想を尽かすような事は、多分ない。その逆と同じくね。その程度には、好かれている自負はある。ただ、あるとすれば国難の時期が来た時に、彼女が黙って身を退く可能性が……ね。俺はそれが、とてつもなく怖い。大叔父上には『愛情をぶつけている』なんて揶揄やゆされたけど、多分そこまでしないと、彼女には俺の本気が届かない気がしているんだ。だからある程度までは目をつぶっていて欲しいね」


「……皇妃としては、理想的な覚悟をお持ちではありますけれど」


「そんな彼女だから、好きになった側面は否定しない。ただ、本気でそれを実行されたら、俺はもう立ち直れないよ」


 奇しくもデューイが断言している通り、本気で公国くにを潰したいなら、エーレからキャロルを引きがすのが、最善の策になってしまう。


 エーレ自身、それは充分に自覚している事だった。


 最大の弱点を、宮殿の外でまで噂されるレベルでさらしている事は、為政者としては本来あまり褒められた事ではないのだが、エピソードとしては市民、主に女性受けが抜群に良いため、どうやら適度にぼかしながら、敢えてその噂は収拾しないと言う方向で、宰相や大臣達の間で話はついているようだった。


「……エーレ様の方が、その『国難』に際してキャロル様の手を離されるような事はないんですか?」


 何気なく問いかけたリーアムに、エーレはふと顔を上げた。


「――ない。レアール侯や夫人に何と言われようと、俺は彼女の手は離さない。滅びるなら共に、だ」


「……っ」


 何を不吉な、とはリーアムには言えなかった。

 それが本気である事くらいは、リーアムにも分かる。


大甥エーレを見れば、ナタリーも納得するだろう)


 冷徹宰相、と陰口を叩かれる程のエイダルが苦笑するなど珍しかったが、さもありなんと、リーアムも腑に落ちた。


「まあ……エーレ様でしたら、釣った魚に餌はやらないと言う事もなさそうですね」


「何だい、それ?」


「平民女性の間では時々言われております。下町言葉のようなものですね。意中の女性を手に入れるまでの過程を楽しむ事が主目的で、手に入った後はてのひらを返して、放置。ひどいと、手に入れた相手の好意をないがしろにして、次の女性に走ったりしますね。総じて、結婚後に全く優しくなくなる男性の所業を指します」


「……酷いな」


「言い方はともかく一定数は存在しますからね。当人に自覚がない場合もございますし。エーレ様はぜひ、そのような陰口を侍女達から叩かれる事のないようお願い申し上げます」


 本来、侍女長が皇帝陛下に向かって、言う言葉ではないのだが、恐らく、リーアムの言葉を聞けている内はエーレはだと、双方が認識している。


 この日も、エーレはくつくつと、低く笑うだけである。


「……彼女が皆から嫌われていないようで、何よりだ」


「傷の事だけでなく、この方は幸せになってしかるべき方ではないかと」

「……肝に銘じておくよ」


 そしてエーレの予想通り、リーアムに起こされたキャロルは、起き上がった。


「……っ……」


 右手でももから腰の辺りをさすりつつ、左手で目元を擦りながらも、何とか目を開けようとしている。


「おはようございます、キャロル様。エーレ様が先に浴室を使われていらっしゃいますが、もう上がってこられるかと…『何の約束か知らないけど、今、一緒に入るとその約束を破らせてしまいそうだから』と……」


「⁉︎」

「あの、それと『朝食は、もちろん一緒に』と……」

「――っ!」


 言いづらそうなリーアムの言葉に、キャロルは一気に目が覚めてしまった。


 ついでに自分が何も着ていない事に気付いて、慌てて羽毛デュべカバーにくるまっているのは、もはやリーアムには見慣れた光景だ。


「早起きの理由を聞いていない、と……ねておいででしたよ、エーレ様」

「あはは……」


 話そうにも、途中で、になった――とは、何となく言いづらいキャロルだったが、表情で何となく、リーアムも察したらしかっ

た。


「……本当に乳母も私も、ここまで誰かへの執着が強すぎるに、育てた覚えはないのですけれど……」


 その声は、足元の床に吸い込まれて消えただけで、誰の耳にも届かなかった。

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